第一章 廃墟の設計図
一
一九二三年九月の報せは、漁船で届いた。
ウラジオストクの朝鮮人街に、日本から逃れてきた男が着いた。顔の左半分に火傷の痕があり、右手の指が二本なかった。男は朝鮮人労働者たちの前で、途切れ途切れに話した。
東京が燃えた。横浜も燃えた。火が収まる前に、別のものが始まった。朝鮮人が井戸に毒を入れた、という噂が走った。噂は火より速かった。自警団が竹槍を持って通りに出た。軍が動いた。朝鮮人が殺された。何人かはわからない。数え切れない。数えた者もいない。
男はそこまで言って、黙った。
朴は、男の話を最後まで聞いた。質問はしなかった。二本の指を失った経緯も聞かなかった。男に水を渡し、寝る場所を手配した。
その夜、朴は帆布の小袋を開かなかった。開く必要がなかった。
同じ月、東京でアナーキストたちが蜂起を試みて失敗した、という続報が入った。震災の混乱に乗じた自然発生的な蜂起。組織もなく、計画もなく、熱情だけがあり、三日で潰された。自由市と同じだった。信じる者たちが、信じるままに死んだ。
朴は翌朝から、函館への連絡路の構築に取りかかった。
二
ルートは海から作った。
ウラジオストクと函館の間には、日本海を渡る漁民がいた。ロシア側の港を出て日本海の好漁場で操業し、函館に水揚げする。あるいはその逆。国境は地図の上の線であって、海の上にはなかった。漁民にとって、日本語もロシア語も朝鮮語も、魚を売るための道具だった。
朴が最初に声をかけたのは、ウラジオストク港で鰊を干していた男だった。五十過ぎの朝鮮人で、三十年ロシアの海で働いていた。朴は金を渡す代わりに、男の息子の就職先を世話した。港湾倉庫の事務員の口だった。男は礼を言い、次の漁のときに函館で手紙を預かることに同意した。
こうして一本の糸ができた。
一本の糸を二本にし、二本を四本にするのに、二年かかった。函館に着いた手紙を受け取る者が必要だった。受け取った手紙を次の場所に運ぶ者が必要だった。その場所で待つ者が必要だった。どの結節点でも、一人が捕まったときに全体が露出しない構造が必要だった。
朴は一九二四年の春から函館に入り始めた。漁船に乗り、漁民のふりをして上陸した。函館の街は坂が多く、港から見上げると教会の尖塔がいくつか見えた。港の倉庫には、ドイツ語の荷札がついた木箱が積まれていた。ミッテルオイローパ経済圏の商品が、函館の港を経由して北海道に流れ込んでいた。ドイツ製の工作機械、化学薬品、光学器具。帝国が世界大戦に勝ってから十年、ドイツの商品は世界のどこにでもあった。
函館ハリストス正教会。
白い壁に緑の屋根の教会は、函館山の中腹に建っていた。信徒の多くはロシア人だった。白系ロシア人——ボリシェヴィキに勝った側のはずだったが、新しいロシアにも居場所がなかった者たちだった。革命後の混乱で土地を失い、極東に流れ着いた。函館の白系ロシア人は年々増えていた。特高はこの教会を監視していたが、熱心ではなかった。白系ロシア人は反共だった。ボリシェヴィキの敵だった。監視する理由がなかった。
それが朴の狙いだった。
正教会の信徒の中に、朝鮮人が数人いた。移民二世の者たちで、ロシア語を話し、正教の洗礼を受けていた。特高の目にはロシア人に見えた。朴はこの朝鮮人信徒の一人に接触した。典礼の後、教会の裏庭で立ち話をするだけの関係を、半年かけて作った。
函館が起点になった。函館から小樽へ。小樽から炭鉱地帯へ。北海道の地下に、細い根が伸び始めた。
三
一九二六年の春、ルートが一つ切れた。
函館で手紙を中継していた男が、酒場で口を滑らせた。密告ではなかった。酔った勢いで、「ロシアから手紙を預かることがある」と言っただけだった。相手が誰だったのかは、朴には最後までわからなかった。しかし翌週、函館の港で警察が漁船の荷を調べ始めた。
朴はウラジオストクにいた。連絡が途絶えたことで異変を知った。三日後、函館の協力者から暗号電報が届いた。「叔父が入院した」。中継点が一つ潰されたことを意味していた。
朴はルートを切り替えた。函館の正教会ルートは生きていた。潰れたのは港湾ルートだった。朴は港湾ルートを放棄し、別の漁村から新しい経路を作り直した。
作り直す間、朴は正教会に通い続けた。信徒のふりをして典礼に出た。聖歌を覚えた。司祭の説教を聞いた。信仰はなかったが、形式は身についた。
正教会の信徒たちは、関係を持つのに悪い相手ではなかった。白系ロシア人の多くは、ミッテルオイローパ経済圏と個人的な繋がりを持っていた。ドイツの商社で通訳として働く者がいた。ハンブルクやベルリンの銀行に口座を持つ者がいた。革命前のロシアとドイツの間に築かれた取引関係が、いくらかは生きていた。彼らはドイツ語を話し、ドイツ語の新聞を読み、ドイツ経済圏の動向に敏感だった。特高が彼らを「反共の白ロシア人」として安全視しているうちは、この教会は使える場所だった。
ある日、典礼の後で、朴は教会の書庫に入った。古い典礼書が積まれた棚の奥に、背表紙が剥がれかけた本があった。修繕しようと手に取ったとき、背表紙の裏から紙片が落ちた。
黄ばんだ紙だった。石版印刷で、朝鮮語とロシア語が混在していた。日付は一九〇五年頃。内容は組織の連絡方法の断片だった。「正教会の礼拝日に、特定の聖歌を一節余分に歌う者が仲間である」。
朴の手が止まった。
それは、朴が自分で考案したと思っていた方法と同じだった。正教会を隠れ蓑にすること。典礼の形式を暗号に使うこと。特高の盲点——白系ロシア人は反共だから監視が甘い——を突くこと。すべてが同じだった。
二十年前に、名前も知らない誰かが、同じ場所に立ち、同じ問いに同じ答えを出し、名前も残さずに消えていた。
朴はその紙片を長い間見ていた。それから、紙片を元の場所に戻した。背表紙を糊で貼り直し、棚に戻した。
翌日から、朴は連絡方法を変更した。聖歌の暗号をやめ、別の方法に切り替えた。先人と同じ方法を使い続ければ、先人と同じように露見する。廃墟から学んだものを、守るために捨てる。
帆布の小袋は朴の内ポケットにあった。金廷民の紙片と、名もなき先人の設計図。重さは同じだった。
四
一九二七年、コミンテルンが朴の工作を正式に承認した。
承認といっても、書類が一通届いただけだった。ベルリン近郊の亡命組織から、函館経由で回ってきた薄い便箋に、「極東工作の継続を認む」と書かれていた。署名は読めなかった。
朴にとって承認の意味は一つだった。資金が来る。資金が来れば、ルートを増やせる。ルートが増えれば、人を送れる。人が増えれば、組織ができる。組織ができれば、革命が近づく。計算だった。
同じ年、昭和金融恐慌が日本を襲った。銀行が潰れ、工場が止まり、炭鉱が人を減らした。飢えた者が増えた。飢えた者は、聞く耳を持った。
小樽の協力者から報告が来た。港の倉庫に積まれていたドイツ語の荷札がついた木箱が、三月からめっきり来なくなったという。去年まで毎週入荷していたシュタインバッハ商会の機械油が棚から消えた。炭鉱に卸していたライプツィヒ製の測定器具の在庫が尽き、補充の目処が立たない。代わりに国産品が入り始めたが、値段は高く、質は落ちた。倉庫の主が「ドイツもようやく遠くなった」と言った、という。
函館の正教会でも変化があった。白系ロシア人の信徒の一人が、ドイツ語で書かれた新聞を持ち込んでいた。ミッテルオイローパの経済誌だった。帝国の大手銀行がいくつか整理され、日本向け融資の枠が縮小された、という記事があった。信徒の老人はその記事をドイツ語で読み上げ、それが何を意味するか長々と話した。朴にはドイツ語は読めなかったが、老人の話を聞きながら輪郭だけを摑んだ。マルクで動いていたものが、止まり始めている。
港町で暮らす者たちにとって、ドイツ経済圏の好況は空気のようなものだった。帝国がWWIに勝ってから十年以上、ドイツの商品は当然そこにあった。倉庫にあり、商店にあり、炭鉱の機械室にあった。それが消えるとき、初めて人はそれが何だったかを知る。函館の港町を歩けば、まだドイツ語の看板が残っていた。「Bremer Handelshaus」。「Vereinigte Kolonialwaren」。ガラスに金の文字で書かれた商社の名前が、石造りの建物の正面にあった。しかしシャッターが下りている店もあった。貼り紙に「一時閉業」とあった。入荷未定、と書かれたものもあった。
小樽の朝鮮人街で、朴は炭鉱へ向かう男たちと話した。夕張から来た男が言った。機械の部品が届かないから残業が増えた。残業手当は出ない。怪我人が増えた。怪我をしても補償がない。それは去年と同じだ、と朴は思った。しかし同じではなかった。去年は仕事があったから黙っていた。今年は仕事も減り始めていた。仕事が減れば、口が増える。口が増えれば、聞く耳を持つ者が増える。
恐慌は計算を変えた。仕事を失った者が増えた。仕事があっても賃金が削られた。不満は形を変えずに蓄積した。
朴は炭鉱地帯に文書を送り始めた。難しいことは書かなかった。賃金の計算方法と、団結の手順だけを書いた。日本語で書いた。炭鉱の朝鮮人労働者にも読めるように、漢字に振り仮名をつけた。朝鮮語で書く方が早かったが、日本人労働者に渡らない文書は意味がなかった。
文書は正教会ルートで運ばれ、炭鉱の飯場で手から手へ渡った。
夕張の飯場から反応が来た。四十人の朝鮮人労働者のうち、三人が文書を読み、二人が質問を返してきた。賃金が日本人労働者の七割しか出ないのは本当か。本当だった。朴はその数字を確認し、文書の次の号に書いた。三人目の男は質問を返さなかった。飯場の班長だった。一ヶ月後、班長は朴の文書を配達する側に回った。
読んだ者は燃やした。燃やさなかった者もいた。
五
一九二八年の秋、朴は初めて東京に入った。
漁船で函館に渡り、鉄道で南下した。車窓から見る日本の秋は、ウラジオストクとは違う色をしていた。稲刈りの終わった田が黄色く広がり、柿の実が枝に残っていた。車内のアナウンスが日本語で流れた。切符を切る車掌が日本語で話しかけてきた。朴は日本語で答えた。流暢だった。函館で漁民と交渉し、正教会で信徒と話し、協力者に文書を書くうちに、日本語は三番目の言語から二番目になっていた。いつそうなったのか、朴は気づいていなかった。
東京に近づくにつれ、車窓の景色が変わった。工場の煙突が増えた。駅の構内に広告の看板が並び始めた。仙台を過ぎたあたりから、ドイツ語の文字が混じるようになった。「BAYER」の赤い文字が薬局の軒先に出ていた。「SIEMENS」の看板が電気器具店の壁に貼られていた。東京の駅に降りると、人の波の中に欧州風の外套を着た男たちが混じっていた。日本語と英語と、時おりドイツ語が聞こえた。銀座に向かう大通りの角に、「C. ITOH & Co.—Deutsche Abteilung(ドイツ部)」と書かれた看板のある商社があった。ショウウィンドウにはドイツ製の精密機器と布地が並んでいた。
ウラジオストクで、函館で、小樽で見たのと同じ名前が、東京の街にもあった。海の向こうにある帝国が、商品の形で毎日この街に流れ込んでいた。帝国に勝者はいた。しかし東京の下町には、ウラジオストクの朝鮮人街と同じ顔をした者たちが路地に暮らしていた。屋台の前で朝鮮語を話す男がいた。函館の港町と同じ、くたびれた防寒着を着ていた。ドイツの商品は大通りにあった。それを買えない者たちは路地にいた。大通りと路地の間に、朴が渡るべき橋があった。
金廷民の紹介状を内ポケットで確認した。六年前にベルリンで使おうとして使わなかった紹介状が、ようやく届け先に届く。
堺利彦の家は、東京の下町にあった。小さな平屋で、庭に柿の木があった。
堺は五十八歳だった。白髪で、背中が曲がり始めており、声が細かった。しかし目は澄んでいた。朴が紹介状を差し出すと、堺は封を切らずに長い間その紙を見ていた。
「金廷民の字だ」
堺はそう言って、ようやく封を開けた。読み終えると、紹介状を丁寧に畳み、自分の机の引き出しに入れた。
「あの人は死んだのか」
「一九二〇年に」
堺は頷いた。何かを言いかけ、やめた。代わりに立ち上がり、奥の部屋から一冊の帳面を持ってきた。表紙はなく、背が糸で綴じてあった。
「最後の名簿だ。符丁は金廷民と同じものを使っている。読めるだろう」
朴は帳面を受け取った。開くと、十数人の名が符丁で記されていた。住所は実名ではなく地域の特徴で書かれていた。「坂の多い港町の、教会の見える通り」。函館だった。朴が自分で作ったルートの協力者の名が、堺の名簿にも載っていた。
先人は朴の先を歩いていた。地図もなしに、朴と同じ道を歩いていた。
堺は茶を淹れた。二人は柿の木が見える縁側で、三十分ほど話した。堺は日本の労働運動の話をした。朴は北海道の炭鉱の話をした。政治の話はしなかった。サンディカリスムとボリシェヴィズムの違いも、コミンテルンの承認も、話題にならなかった。二人は労働者の暮らしの話をした。
帰り際、堺が言った。
「気をつけなさい。特高は馬鹿ではない」
朴は頭を下げた。堺は玄関先まで出て、朴が角を曲がるまで見ていた。
二ヶ月後、堺利彦は死んだ。第零世代の最後の生存者が消えた。
朴の手元には、帆布の小袋と一冊の帳面が残った。小袋の匂いはもう薄れていた。帳面には匂いがなかった。符丁だけがあった。
朴永哲は三十三歳になっていた。翌年、「木村鉄雄」という名で北海道に入る。