第二章 彼女の名前
一
一九二九年の春、朴永哲は死んだ。戸籍の上での話だった。ウラジオストクの朝鮮人登録簿から名前を消し、函館で入手した日本人の身分証を使い、北海道炭鉱汽船会社の募集に応じた。名前は木村鉄雄。本籍は青森県。年齢は二つ若くした。夕張炭鉱の坑口に立ったとき、朴は三十四歳だった。木村鉄雄は三十二歳だった。
夕張の石炭は、国内の製鉄所だけでなく、ドイツ経済圏向けの輸出にも回されていた。ミッテルオイローパの好況が北海道の炭鉱まで波及し、坑夫の募集は途絶えなかった。朝鮮から来た労働者は賃金の安い坑口に回されたが、仕事だけはあった。
翌年の秋、飯場に女が来た。
炊事場の手伝いだった。朝鮮人労働者の妻たちが交代で炊事を担当しており、その一人が倒れたあとの補充だった。名前は尹英淑。二十二歳。慶尚南道の生まれで、兄を頼って北海道に来たと言った。
朴は最初、尹を気にしなかった。炊事場の女たちは朴の組織の外にいた。名簿にも、セルの図にも、彼女たちの名前はなかった。朴は坑内で働き、飯場で勉強会を開き、文書を書いた。炊事場は通り過ぎる場所だった。
尹が朴に初めて話しかけたのは、飯場の裏手だった。朴が文書を帆布の小袋にしまっているところだった。
「木村さん」
朴は振り向いた。
「朝鮮語、わかるんでしょう」
日本語だった。しかし発音に朝鮮語の影があった。朴は答えなかった。木村鉄雄は日本人だった。
「坑内で金さんが怪我をしたとき、あなたの顔が変わった。言葉が出る前に、顔が動いた。朝鮮語を聞いて反応する顔だった」
朴は尹を見た。小柄な女だった。髪を後ろで一つに束ね、炊事場の油で手が荒れていた。しかし朴を見る目が動かなかった。観察する目だった。見られる側に回った経験を持つ者の目だった。
「何の話かわからない」
朴は日本語で答え、飯場に戻った。
二
尹英淑は、朝鮮の女たちの中で育った。
慶尚南道の村で、母は機を織り、祖母は畑を耕した。女たちは朝鮮語で話し、朝鮮語で歌い、朝鮮語で子を叱った。慶尚道の言葉だった。語尾が短く、母音が硬かった。「ハンダ」が「ハンデイ」になり、「モルゲッソ」が「モリゲッダ」に縮まった。母の叱り声は「イレ ハモ アン デジ」で始まった。京城の標準語を聞いたのは学校に入ってからだった。日本語は学校で習った。学校では朝鮮語を話すと叩かれた。尹は日本語を覚えた。覚えたが、使うたびに口の中に小石があるような感覚が残った。
学校で習ったのは日本語だけではなかった。算数の教科書の表紙の裏に、製造元の印があった。「東洋印刷株式会社、ライプツィヒ式活版使用」と印刷されていた。算盤は国産だったが、コンパスと分度器はドイツ製だった。先生が自慢げに見せた顕微鏡には「ZEISS JENA」の文字があり、先生はその文字を指してドイツ帝国のものは精巧だと言った。尹には帝国がどこにあるのか、地図の上の名前しかわからなかった。しかし道具の重さはわかった。コンパスを持つたびに、遠い場所で誰かが作った、という感触があった。
村の港に、年に一度か二度、大きな船が入った。旗に黒・白・赤の横縞があった。ドイツの船だった。荷を下ろし、荷を積み、また出ていった。大人たちは「ドイツ船はよく来る。朝鮮の港はドイツの商売の通り道だ」と言った。朝鮮の米と綿が積まれ、代わりに機械の部品と染料が下ろされた。何のための染料か尹は知らなかった。ただ、荷台に積まれたドラム缶に見慣れないアルファベットが書かれていた。船が出るたびに、港は静かになった。
北海道に来るとき、尹は関釜連絡船に乗り、下関から汽車に乗り継いだ。下関の駅の近くに、ドイツ語の看板のある商会があった。「Nippon-Deutsche Handelsgesellschaft」。窓から見えるだけで、中には入らなかった。乗り継ぎの時間が短かった。記憶に残ったのは看板の文字の形だけだった。ドイツ語は読めなかった。函館に着いたとき、港の倉庫にも同じような看板があった。同じ文字の形が、朝鮮の港にも、日本の港にも、同じ顔をして立っていた。商売の言葉は、国境で止まらなかった。
槿友会の集まりに出たのは十七歳のときだった。京城で、女たちが集まっていた。女性の教育を。女性の権利を。朝鮮語で議論し、朝鮮語で決議を書いた。尹はそこで初めて、自分の言葉で自分のことを決める場所を知った。
北海道に来たのは、兄が夕張の炭鉱にいたからだった。兄は坑内事故で右足を引きずるようになり、働けなくなった。尹が代わりに働きに来た。炊事場の仕事は一日十四時間で、賃金は男の半分だった。
飯場には朝鮮人の女が何人かいた。炊事場で働く者、洗濯をする者、検番の相手をさせられている者。尹は彼女たちと話した。朝鮮語で話した。夜、布団を並べて眠る前の短い時間に、声をひそめて。
尹が知ったのは、木村鉄雄という男が飯場で勉強会を開いていることだった。賃金の計算を教えていると聞いた。朝鮮人の男たちが木村を信頼していることも聞いた。
しかし、勉強会に女はいなかった。
三
尹は木村の勉強会を、炊事場の壁越しに聞いた。
日本語だった。朴が朝鮮人労働者に向かって、日本語で賃金の仕組みを説明していた。朝鮮語しか話さない者は、隣の男に小声で訳してもらっていた。翻訳は断片的で、数字は正確だったが、言葉の温度は失われていた。
尹は三日後、朴の前に立った。今度は飯場の表だった。他の労働者の目がある場所を選んだ。
「木村さん、お願いがあります」
朴は立ち止まった。
「炊事場の女たちにも、賃金の話を聞かせてください」
朴は少し考えた。
「勉強会は坑内の話が中心です。炊事場の方々には関係が薄いかもしれません」
「賃金が男の半分なのは、関係が薄いですか」
朴は黙った。
「あなたの名簿に、女の名前はいくつありますか」
朴は答えなかった。答える前に、尹は言った。
「ゼロでしょう。男四十人を組織して、女十二人が見えていない。あなたの勉強会に通訳がいないことにも気づいていない。朝鮮語のできない日本人が、朝鮮人を日本語で組織している。不思議な構図ですね」
朴の手が一瞬止まった。尹はそれを見た。
朴は声を落とした。
「通訳は不要です。参加者は全員、日本語がわかる」
「わかることと、自分の言葉であることは違います」
尹は頭を下げて去った。朴は飯場の入口に立ったまま、しばらく動かなかった。その夜、飯場で朝鮮人労働者が故郷の歌を低く歌っているのが聞こえた。朝鮮語が喉の奥まで上がってきた。朴はその言葉を飲み込み、日本語に変えて、隣の男に「明日の坑道配置は」と尋ねた。
四
一週間後、朴は尹に声をかけた。
「炊事場で、一度やってみてください」
尹は頷いた。条件は出さなかった。朴の許可が必要だったわけではない。朴が自分から声をかけてきたことに意味があった。
尹は炊事場の女たちに、賃金の話をした。朝鮮語で話した。数字は朴の文書から借りた。しかし語り方は朴とは違った。尹は数字を生活に結びつけた。米の値段。薪の値段。息子の学費。娘を学校に通わせるために、あと何年働けばいいか。女たちは頷いた。数字が自分のものになった瞬間があった。
朴はそれを壁越しに聞いていた。尹が朝鮮語で話すとき、女たちの声が変わることを聞いた。質問が増えた。笑い声が混じった。朴の勉強会では笑い声は聞こえなかった。
翌月、尹は朴に報告した。
「三人、動けます。信頼できる人です。名前を教えましょうか」
朴は頷いた。尹は三人の名を挙げた。朴はその名前を記憶した。紙には書かなかった。
「あなたの帳面に、この名前を書いてください」
朴は首を横に振った。
「記憶する。紙に書けば、紙が捕まる」
「紙が捕まるのが怖いなら、なぜ日本語で文書を書くんですか。朝鮮語で書けば、特高に読まれにくいのに」
朴は答えた。
「日本人の労働者にも渡すからです」
「日本人の労働者に朝鮮語を教える方が、よほど連帯ではないですか」
朴は黙った。尹の問いは、朴が自分に問わなかった問いだった。
その年の秋、飯場の機械室で使っていたドイツ製のポンプが壊れた。交換部品の注文を炭鉱の事務所に出したが、回答が遅かった。二週間後、現場主任が「部品の入荷が止まっている」と言った。ハンブルクの商社から仕入れていた部品が、昨年来途絶えがちだという。一九二九年の秋からだった。国産の代替品を探しているが、規格が合わない。それまでの間、ポンプは手作業でまかなうことになった。
炭鉱夫の一人が「ドイツがだめになったか」と言った。別の男が「世界中で銀行が潰れているからな」と答えた。ドイツもアメリカも、と言いかけて黙った。夕張の坑内でそれ以上の話は出なかった。しかし朴は聞いていた。
世界恐慌は数字の問題だった。しかし飯場では道具の問題として現れた。壊れたポンプ。届かない部品。増える手作業。体を使う量が増え、怪我が増えた。怪我が増えれば、賃金から差し引かれた。計算の連鎖だった。
夕張の石炭はドイツ経済圏向けだった。買う側が傾けば注文が減り、坑夫が削られ、残った者の条件が悪くなる。炭鉱夫の多くはその連鎖の全体を見ていなかった。
炊事場の食材にも変化が出た。去年まで食料品店に並んでいたドイツ製の缶詰が消えた。安い輸入品がなくなり、国産の割高な食材で賄うしかなくなった。炊事場の予算は変わらなかった。食材の値段が上がれば、量が減る。量が減れば、腹が減る。腹が減った者は怒る。怒りはまず近くにある者に向かった。炊事場の女たちが板挟みになった。
尹は食材の調達先を変えた。市場の朝鮮人商人から直接買い付けることにした。中間の業者を外した分、少し安くなった。炊事場の量は保たれた。しかし尹はそれを朴には報告しなかった。報告する必要がなかった。朴の組織の枠の外で、尹は別の計算をしていた。
五
一九三一年の冬、朴は函館に戻った。
函館の港町は変わっていた。いや、変わっていなかった。変わったのは欠けたものの数だった。二年前まであったドイツ商社の看板が一枚消えていた。元「Bremer Handelshaus」の建物は、今は国産の織物問屋になっていた。シャッターが下りたままの店が、以前より増えていた。港の倉庫街で働く男が少なくなっていた。世界恐慌の二年後、函館の商売の輪郭が細くなっていた。
しかし正教会はそこにあった。白い壁。緑の屋根。坂の中腹に、変わらず建っていた。
正教会の日曜礼拝に出るためだった。蝋燭の匂い。イコンの金箔。スラヴ語の聖歌が天井に反響した。朴は後方の席に座り、聖歌を歌った。発音は正確だった。
礼拝の後、茶話会があった。朴は窓際の、出口に近い椅子に座った。
見慣れない男がいた。三十代後半。痩せた体に質の良い外套を着ていた。靴の底が均一に減っていた。舗装された道を毎日決まった距離だけ歩く者の靴だった。男は信徒の老女と穏やかに話していた。「友人に勧められまして」と笑顔で答えていた。
朴は紅茶を飲みながら、男と目を合わせなかった。
教会を出て坂を下った。三つ目の角を曲がったとき、背後に足音があった。朴と同じ速さで歩く足音だった。四つ目の角でも消えなかった。五つ目でも。
朴は振り返らなかった。振り返れば確認できる。しかし確認すれば、相手も確認する。追う者と追われる者の関係が確定する。
港の市場に入った。魚の匂いと人声の中で、足音は消えた。
翌日、函館を発った。正教会のルートは捨てなかった。靴の底が均一に減った男がいた。しかし、まだ確定していなかった。確定するまでは動かない。計算だった。
鬼頭誠一郎は、その晩、宿の机で報告書を書いた。
「木村鉄雄。炭鉱労働者。函館ハリストス正教会の信徒。スラヴ語で聖歌を歌う。ロシア語に堪能。危険性は低い」
報告書を封筒に入れた。それから、別の紙を取り出した。方眼紙だった。中央に「木村鉄雄」と書いた。その下に日付と場所を書いた。方眼紙の端に、他の名前がいくつかあった。名前と名前の間に、線はまだ引かれていなかった。
鬼頭は方眼紙を折り、胸ポケットに入れた。報告書は郵便で送った。方眼紙は送らなかった。
六
一九三二年の冬、飯場の炊事場で働いていた老女が倒れた。
名前は知られていなかった。朝鮮人だった。夫は坑内事故で死に、息子は徴用で満洲に送られていた。炊事場の女たちは彼女を「おばあさん」と呼んでいた。
尹は老女を介抱した。湯を沸かし、布団を寄せ、額の汗を拭いた。老女は尹の手を握り、朝鮮語で何かを言った。声が小さくて聞き取れなかった。尹は耳を近づけた。
「あの人は——木村さんは——」
老女はそこで止まった。
「朝鮮の人でしょう」
尹は答えなかった。老女は尹の手を握ったまま、目を閉じた。眠ったのだと尹は思った。しかし老女の手は尹の手を離さなかった。
翌日、老女は起き上がった。飯場の通路で朴とすれ違ったとき、老女は朴の前に立った。何も言わなかった。朴の右手を取り、皺だらけの両手で包んだ。石炭の粉が爪の間に入り、洗っても取れなくなった手だった。
朴は何も言わなかった。老女は手を放し、炊事場に戻った。
尹はその場面を炊事場の入口から見ていた。老女は朴の手を包んだ。朴は翌日の工程表に戻った。二人の間に言葉はなかった。朝鮮語も日本語もなかった。
尹は自分の荷物の底にある手紙を思った。母が送ってきた手紙だった。朝鮮語で、慶尚南道の方言で、季節の挨拶と体を大事にしなさいという言葉が書いてあった。朴の帳面には載らない文字だった。朴の名簿にも、朴の文書にも、朴の組織にも、この文字は存在しなかった。
尹は手紙を荷物の底に戻した。母の文字は、ここでは誰にも読めなかった。朴にも。
尹英淑は二十四歳だった。木村鉄雄と呼ばれる男の組織の中に、名前のない場所を一つ作った。