第三章 三つの衝撃
一
一九三六年四月、片山潜が死んだ。
東京・麻布の社会大衆党本部の前で、二人の男が片山に近づいた。一人が話しかけ、もう一人が背後から刺した。片山は歩道に倒れ、救急車が来る前に死んだ。七十七歳だった。
犯人はその場で取り押さえられた。国粋社の名刺を持っていた。供述は簡潔だった。「国体を脅かす者を除いた」。社会大衆党は合法政党だった。片山は議会で演壇に立ち、労働者の権利を訴えていた。しかし犯人にとって、合法であることは無関係だった。
新聞は翌日の朝刊で報じた。見出しは大きかったが、記事は短かった。片山潜という名前を知っている読者は多くなかった。サンディカリスムという言葉を理解している読者は、さらに少なかった。
東京の工場街では、労働者たちが新聞を回し読みした。片山が創設した社会大衆党の事務所には、花と手紙が届いた。手紙の多くは匿名だった。
大阪の紡績工場で働く女工が、昼休みに同僚に言った。「あの人は私たちのために話してくれた人だ」。同僚は頷いた。午後の始業の鐘が鳴り、二人は機械の前に戻った。
二
五月十五日、犬養毅が殺された。
首相官邸に海軍の青年将校が押し入り、犬養を銃殺した。将校たちは制服を着たまま行動し、逮捕に抵抗しなかった。
動機は、片山潜の死だった。
将校たちは片山の支持者ではなかった。サンディカリストでもなかった。しかし、犬養内閣の下で片山が暗殺され、犯人が軽い刑で済むと見做されたことに、彼らは激昂した。「政党政治は腐っている。財閥が政治を買い、労働者の指導者が殺されても誰も罰されない」——将校たちの声明文にはそう書かれていた。
彼らが求めたものは革命ではなかった。維新だった。天皇親政と財閥解体。労働者への公正な分配。それは左翼の主張と似ていたが、左翼の言葉では語られなかった。天皇の名の下に語られた。
犬養の死は、日本の政党政治に終止符を打った。後継首相には鈴木喜三郎が就いた。鈴木は就任と同時に国家保安法を議会に提出した。左翼活動の取締りを強化する法案だった。
しかし法案は否決された。民政党と社会大衆党が反対に回った。衆議院の廊下で、民政党の議員が記者に言った。「片山さんを殺した連中の望む法律を、片山さんの仲間が通すと思うか」。
法案は否決されたが、鈴木は退かなかった。
三
十月、ベルリンの証券取引所が崩壊した。
ドイツ帝国の戦後経済は、ミッテルオイローパの盟主として十五年間拡大を続けていた。マルク基軸の決済システムが欧州を支え、ドイツの工業製品が世界市場を席巻していた。その繁栄は、借りた金の上に建っていた。
崩壊は月曜日に始まった。Black Monday。マルクの暴落が信用連鎖を断ち、ベルリンの銀行が支払いを停止し、ロンドンとニューヨークに波及した。一週間で、世界の株式時価総額の三分の一が消えた。
日本への到達には、二週間かかった。
最初に倒れたのは横浜正金銀行の支店だった。外国為替取引が止まり、貿易決済ができなくなった。繊維の輸出が止まった。生糸の価格が暴落した。農村では、娘を売る話が再び聞こえ始めた。
東京の証券会社の前に人だかりができた。株価を示す黒板の数字が、消されては書き直されるたびに小さくなった。誰かが黒板を蹴った。
大阪の工場が操業を短縮した。紡績工場の女工が半分に減らされた。昼休みに片山の死を悼んだ女工のうち、何人かは翌月には工場にいなかった。
北海道の炭鉱では、出炭量が減らされた。賃金が下がった。飯場の食事が薄くなった。夕張では朝鮮人労働者が真っ先に人員整理の対象になった。日本人労働者は残り、朝鮮人が去った。去った者たちは行く先がなかった。
十一月、夕張の炭鉱事務所の前に労働者が集まった。解雇通告を受けた者たちだった。声を上げる者がいた。事務所の窓は閉じられていた。
群衆の中に、一つの声があった。日本語だった。落ち着いた声で、賃金の計算を説明していた。「一日の出炭量が減っても、一人あたりの出炭量は変わっていない。つまり、賃金を下げる根拠がない」。周囲の男たちが耳を傾けていた。
群衆の外縁に、外套の襟を立てた男が立っていた。鬼頭誠一郎は声を聞いていた。顔は見えなかった。人垣の向こうから聞こえてくる声だけがあった。
鬼頭は胸ポケットの方眼紙を指で触った。「木村鉄雄」と書かれた紙だった。
声には訛りがなかった。木村鉄雄の本籍は青森県だった。青森出身の男が、標準語で賃金の計算を説明している。炭鉱労働者の日本語ではなかった。東北から出てきた男が覚えた標準語でもなかった。言葉の一つ一つが正確すぎた。文法に隙がなかった。母語として育った者の無造作な崩れが、どこにもなかった。
鬼頭は方眼紙を取り出さなかった。取り出す必要がなかった。「木村鉄雄」の下に、鬼頭はまだ線を引いていなかった。今日、引く。
四
夕張の飯場で、朴永哲は三つの報せを順に受け取っていた。
片山の死を知ったのは、新聞の三面記事だった。朴は新聞を読み終え、畳んで隣の男に渡した。
十四年前、ベルリン近郊の寒い部屋で、片山は朴に問うた。「勝った後の世界で、人間はどうなる」。朴はあの夜、答えなかった。答えを持っていなかったからではなく、問いが問いではなかったからだった。
片山は死んだ。問いは残った。
五・一五の報せは、坑内から上がったときに聞いた。飯場の炊事場で、ラジオが流れていた。労働者たちが黙って聞いていた。首相が殺されたことに、驚いた者は少なかった。驚かなかったことに、朴は注意を払った。帝国の秩序が崩れつつあることを、彼らは肌で感じていた。
Black Mondayの影響が夕張に届いたとき、朴は勉強会の出席者が増えたことに気づいた。声をかけていない者が来るようになった。賃金が減り、飯が薄くなり、誰かのせいにしたい怒りが溜まっていた。
朴は勉強会の内容を変えなかった。賃金の計算方法を教え続けた。怒りに火をつけることはしなかった。怒りは燃料だったが、今はまだ火をつける時ではなかった。
その夜、飯場で寝転がりながら、朴は翌日の段取りを頭の中で組み立てていた。日本語で組み立てていた。いつからそうなったのか、朴は一瞬考えた。ウラジオストクではロシア語で考え、朝鮮語で眠った。今は日本語で考え、日本語で眠っている。朴はその事実を認め、理由を探した。木村鉄雄として八年暮らしている。日本語で考える方が効率がいい。組織の言語が日本語である以上、思考の言語も日本語が合理的だ。
朴はそう結論し、目を閉じた。眠る前に、尹英淑の声が一瞬浮かんだ。「わかることと、自分の言葉であることは違います」。朴はその声を押しやった。
弾はすでに装填されていた。Black Mondayは引き金に過ぎなかった。しかし引き金を引く手は、まだ準備ができていなかった。
朴は帳面を開いた。堺利彦から受け取った最後の名簿の、まだ連絡を取っていない名前が三つ残っていた。東京の名前だった。
翌年、朴はそのうちの一つに手紙を出す。東京帝大のマルクス研究会だった。
帳面を閉じるとき、朴の指先にインクがついた。堺の字だった。九年前に死んだ男の字が、まだ紙の上に残っていた。