第六章 海の上の書庫
一
一九三九年九月、ヨーロッパで戦争が始まった。
第二次Weltkrieg。フランス・コミューンとドイツ帝国が再び激突した。英連合がコミューン側で参戦し、大西洋は封鎖された。極東のドイツ東洋艦隊はシンガポールで孤立した。
東京の新聞は号外を出した。平沼内閣は「局外中立」を宣言した。しかし中立は表向きだった。ドイツとの間に休戦条約は結ばれていなかった。形式上、日本はまだドイツと交戦状態にあった。
大阪の港は一夜で変わった。ドイツ系の商社が事務所を閉め始めた。ドイツ語の看板が外され、ドイツ人の家族が荷物をまとめていた。二十年間そこにあったものが、一週間で消えた。港湾労働者たちは、積み荷の行き先が変わったことに気づいていた。昨日までシンガポールに送っていた機械部品の注文が止まった。
朴は大阪にいた。港湾の倉庫街で、朝鮮人労働者たちの集まりに顔を出していた。夕張の炭鉱から大阪に流れてきた者もいた。赤い雪の後、北海道を出た者たちだった。彼らは朴を知っていた。しかし朴は木村鉄雄だった。大阪では木村商会の出張員として動いていた。
号外を読み、畳んで捨てた。
世界大戦は機会だった。ドイツの消耗は東洋艦隊の弱体化を意味した。シンガポールに停泊するドイツ東洋艦隊の戦力は戦艦二隻と巡洋艦四隻。本国からの補給が断たれれば、半年で稼働率が落ちる。各国の目がヨーロッパに向いている間に、東アジアでは自由度が増す。特高も軍の関心も、大陸と太平洋に向いていた。
朴は呉に連絡を送った。港湾労働者ネットワーク経由で、一通の手紙が届けられた。符丁で書かれた手紙だった。
手紙を受け取ったのは、海軍の下士官だった。
二
下士官の名前は、本作では明かさない。
彼は呉鎮守府所属の駆逐艦に乗り組んでいた。機関科の下士官だった。三十二歳。広島県の漁村の出だった。海軍に入ったのは、陸に仕事がなかったからだった。
下士官は艦の機関室を動かしていた。士官は命令を出したが、蒸気圧を調整し、罐の状態を読み、エンジンを生かしておくのは下士官の仕事だった。士官がいなくても艦は動く。下士官がいなければ艦は止まる。
下士官はそのことを知っていた。同じことを知っている仲間が、呉の軍港に何人かいた。
朴と下士官の接触は、直接ではなかった。大阪の在日朝鮮人行商人が呉に出入りし、海員組合の非公式な集まりで文書を渡した。文書は賃金の計算方法ではなかった。艦内の指揮系統と、下士官が掌握している機能の一覧だった。
行商人の荷物も変わっていた。Weltkrieg前まで、荷物の中に輸入品の小物が混じっていた。ドイツ製のナイフ、オランダ製の石鹸、シンガポール経由で来た香料。どれも正規品ではなかったが、港町の闇市で動く商品だった。Weltkrieg後、その荷物の中身が替わった。国産品と大陸品。品質が落ちたが値段も落ちた。行商人は「商売はできる」と言った。変わったのは出所だった。
下士官は文書を読んだ。一度読んで、燃やした。
三
叛乱は、一九三九年十月の夜に起きた。
Weltkrieg開戦から一ヶ月後だった。計画では、大阪のゼネストと同時に起こすはずだった。しかし連絡員が特高に検挙され、連絡が断絶した。呉のグループは新聞でWeltkrieg勃発を知り、「今だ」と判断した。
計画外の早発だった。しかし早発には早発の論理があった。
午前零時、駆逐艦「磯波」の機関室で、下士官が士官室の扉に鍵をかけた。同時に艦橋直衛の水兵二名が舵輪と通信機を掌握した。通信兵は事前に引き込んでいた。無線は沈黙させた。参加者は「磯波」だけで十七名。乗組員百四十名の艦を、十七人が制圧した。機関室を押さえた者が艦を持つ。
三十分で艦は下士官たちの手に落ちた。士官十二名は居住区に集められ、「安全管理」の名目で拳銃を回収された。発砲はなかった。死者もなかった。
午前零時三十分、信号灯が点滅した。隣接する駆逐艦「浦波」が呼応し、同じ手順を実行した。「浦波」では機関長が居合わせ、下士官と十五分対峙した。機関長は拳銃を手にしていたが、発砲しなかった。周囲の水兵たちが動かなかったからだった。機関長は拳銃を置いた。
三隻目の「綾波」は、通信兵の工作が不完全だった。暗号電信が半分送信された状態で制圧された。「キンキュウ クレグンコウ ハン——」。途絶えた電文が港内の通信室に届き、混乱をまき散らした。
午前一時、赤旗が掲揚された。呉軍港の夜に、三隻の駆逐艦のマストに赤い布が上がった。
軍港の外では、眠れない者たちがいた。
叛乱の報せは、港に近い長屋にも届いていた。暗いうちに起き出した主婦が、米屋の開く時刻を待ちながら隣の女房と話していた。米はある。しかし灯油の缶が空だった。いつも買っていた燃料は、呉近郊のドイツ商会が卸していた油だった。Weltkrieg開戦から三週間、その商会は閉まったままだった。代わりに近所の荒物屋が国産品を並べ始めたが、値段が三割高かった。
勝手場の棚には、ドイツ語のラベルが貼られた缶詰が残っていた。開戦前に買い置きしたものだった。ドイツ語の字が読めないので、何の肉が入っているかわからなかった。ラベルの鳥の絵から、鶏だろうと見当をつけていた。缶切りを入れると茶色い肉が出てきた。鶏ではなかった。食べられないことはなかった。
機械の部品も動いていた。呉の造船所では、叛乱よりも前から異変があった。ドイツ製の工作機械のベルトが切れたまま、三週間放置されていた。専門の修理業者はハンブルク本社の支店を持つドイツ系企業だった。本社からの連絡が途絶え、支店の日本人従業員が「部品が来ない」と繰り返すだけだった。代替部品を国内で調達しようとしたが、規格が合わなかった。
軍港の夜明けに、機械は止まったままだった。
四
山本五十六は、呉鎮守府の司令室にいた。
報告を受けたのは午前一時だった。副官が駆け込み、「駆逐艦三隻が叛乱」と告げた。山本は椅子から立ち上がらなかった。
「状況を確認する」
山本はそう言い、独自の情報収集を命じた。偵察機の発進を指示し、港内の見張りからの報告を待った。二時間が経った。
午前三時、鎮圧部隊の編成が議題に上がった。参謀の一人が陸戦隊の投入を提案した。別の参謀が航空攻撃を主張した。山本は航空攻撃案を支持した。
しかし別の声がそれを遮った。「海軍が海軍の艦を爆撃すれば、その映像は全世界に流れる。共産主義者の宣伝素材になる」
議論がさらに二時間続いた。
午前五時、山本は降伏勧告文書の起草を命じた。「帝国軍人に対する攻撃は、証拠なき命令では出せない」。文書の文言をめぐって議論が続いた。山本は議論を止めなかった。
夜が明けた。
夜明けとともに、呉だけでなく大阪でも事態が動いていた。港湾労働者がストライキに入った。偶然の同時性だった。呉と大阪の連絡は途絶えていた。しかし世界大戦の開戦というニュースが、両方の火薬庫に同時に火をつけていた。
山本は報告を聞き、窓の外を見た。港には赤旗を掲げた三隻が浮かんでいた。
不作為は作為より証明が難しい。山本はそれを知っていた。航空派閥の将官として、予算と人事を握る側に立つ機会を、山本は計算していた。思想ではなかった。派閥の論理だった。
机の上にはヨーロッパからの公電が積まれていた。Weltkrieg開戦後、在欧の海軍武官からの通信量が急増していた。大西洋の封鎖状況、英国海軍の動向、ドイツ東洋艦隊への補給断絶の進行。シンガポールに孤立した東洋艦隊の司令官から、三日前に最後の打電があった。「弾薬残量十五パーセント。機関部品の補充望む」。返信は出せなかった。出す権限が、今の山本にはなかった。
ヨーロッパは遠かった。しかし遠さが、今の日本の自由を作っていた。山本はそれも計算していた。
五
鬼頭誠一郎は、図書館にいた。
一九三九年十月、東京。呉叛乱の報せが届いた日の午後だった。特高は総動員体制に入っていた。しかし鬼頭は、予定通り図書館に来ていた。
神田の古書街の外れにある小さな図書館だった。鬼頭は週に一度、ここで海外の法学雑誌を読む習慣があった。この日も変わらなかった。
閲覧室に入ったとき、先客がいた。
窓際の席に男が座っていた。本を開いていたが、読んでいる様子はなかった。目は本の上にあったが、焦点は本の先にあった。
朴永哲だった。
大阪から東京に移動していた。呉叛乱の報せを聞き、東京の地下組織との連絡を取るために来ていた。図書館は連絡場所の一つだった。しかしこの日、連絡相手は来なかった。
朴は鬼頭を見なかった。鬼頭も朴を見なかった。二人は閲覧室の対角線上に座り、それぞれの本を開いていた。
閲覧室の奥の隅に、もう一人いた。中国語の農業雑誌を開いている男だった。鬼頭の視界の端に入っていたが、鬼頭の方眼紙には載らなかった。男は朴と鬼頭の動きを見ていた。ただし目は雑誌の上にあった。大陸の人間が日本の秘密警察と地下組織の距離を測る目だった。
三十分が経った。
鬼頭は席を立った。雑誌を棚に戻し、閲覧室を出た。出口の机の上に、白紙のメモ帳が置かれていた。鬼頭のものだった。置いたのか、忘れたのかは、鬼頭自身にもわからなかった。
朴は鬼頭が出ていった後、十分間そのまま座っていた。それから席を立ち、出口を通った。白紙のメモ帳が目に入った。
朴はメモ帳を手に取った。一枚もめくらず、机の上に戻した。
二人は言葉を交わさなかった。視線も交わさなかった。しかし同じ空間に三十分いた。それだけで、二人の間にあるものの形が変わった。追う者と追われる者の間にある距離が、この日、少し縮まった。
朴は図書館を出た。神田の通りは秋の夕暮れだった。古書店の軒先に本が並んでいた。紙の匂いがした。
一軒の古書店の前に、人が立っていた。ガラスケースの中に地図が入っていた。ヨーロッパの地図だった。フランスとドイツの国境線が赤と青で塗り分けられ、戦線の推移が矢印で示されていた。店主が「毎日更新」と紙に書いて貼り出していた。
地図を見ている男は会社員風だった。背広に鞄を持ち、丁寧に眺めていた。隣には中学生らしい少年が立ち、男に何か問いかけていた。男は「ここがドイツで、ここがフランスだ」と指で示していた。少年は頷いた。
別の店では、洋書の棚に英語とドイツ語の本が並んでいた。ドイツ語の本には「値下げ」の札がついていた。Weltkrieg前は稀少品として高く売れたが、今は買い手がいなかった。英語の戦況分析本には値札がなかった。聞くと「今週入ったばかり」と言われた。上海経由で仕入れた本だった。
神田の古書街は、戦争を紙の形で受け取っていた。
朴は歩いた。ドイツ語の看板がまだ二軒残っていた。一軒は薬局だった。もう一軒は楽器店だった。どちらも営業していたが、看板を外す理由はなかった。日本語の名前を持っていたからだった。看板のドイツ語はただの文字になっていた。読める者が来なくなっていた。
六
呉叛乱から一週間後、平沼内閣は崩壊した。
軍港の叛乱と大阪のゼネストを同時に処理できなかった。統制派の将校たちは互いを疑い、命令系統が麻痺した。天皇は沈黙を続けた。沈黙が長くなるほど、秩序は溶けた。
叛乱艦三隻は呉を離脱し、瀬戸内海西部の柱島泊地で待機した。佐世保と舞鶴の下士官グループから合流の打電があった。忠誠艦隊は追撃しなかった。Weltkrieg中に日本の軍港で内戦を始めれば、ドイツに漁夫の利を与える——その判断が双方を縛った。
十月末、陸軍の一部が動いた。仙台の第二師団の青年将校たちが「国体護持義勇軍」を名乗り、東北の軍政を宣言した。五・一五の青年将校たちと同じ思想だった。天皇親政。財閥解体。彼らは呉の叛乱を利用した。「海軍の反乱を鎮圧できない内閣は無能」——その声明が全国の軍管区に伝わった。
大阪のゼネストは二週間で終わった。しかし港湾労働者の組合は解散しなかった。朝鮮人労働者の中に、朴のセル構造が根を張っていた。
膠着だった。しかし膠着は、朴にとっては時間だった。時間があれば組織ができる。組織ができれば、次は赤い雪のようには終わらない。
朴は大阪の宿で工程表を開いた。呉の海軍グループ。大阪の港湾ネットワーク。仙台の陸軍叛乱は想定外だったが、帝国軍の亀裂は歓迎だった。三つの力が同時に動けば、一つを潰しても二つが残る。
朴永哲は四十四歳だった。翌年、内戦が始まる。
大阪の港では、秋の終わりから別の問題が出ていた。
神戸港のガントリークレーンの一基が動かなくなった。十月中旬のことだった。操作系統ではなく、駆動部の部品が摩耗していた。製造したのはベルリンの機械メーカーだった。戦前は年に二回、技術者が来て点検していた。Weltkrieg開戦後、その技術者は来なかった。部品の発注先は大阪に代理店を持つドイツ商社だった。その商社は九月の末に事務所を閉めていた。
港湾労働者たちは、別のクレーンで荷役を続けていた。しかし荷物の量は増えていた。Weltkrieg後の物資の流れが変わり、シンガポール経由だった輸送が日本を通るようになっていた。仕事は増えたが、機械は一基少なかった。
倉庫の荷物検査機も同じ理由で止まっていた。
港湾労働者の班長は、手書きの作業手順を貼り出した。機械がない分を人手で補う手順だった。一班あたり二人増やす必要があった。残業が増えた。朝鮮人労働者が多かった班が、最も多く時間を延ばした。
朴はそれを報告で受け取った。数字を見た。機械の欠落が、人間の労働時間に換算されていた。