第七章之二 東京


尹英淑は、大阪に来ていた。

一九四〇年の夏だった。北海道を出たのは前年の冬だった。特高の監視が強まり、夕張にいられなくなっていた。炊事場の女たちは散り散りになった。尹は小樽から貨物船に乗り、神戸を経て大阪に入った。

大阪で尹が最初にしたのは、台所を探すことだった。港湾労働者の飯場に、炊事担当の空きがあった。飯場の主人は尹の出自を聞かなかった。腕を見て頷いただけだった。

炊事場は炊事場だった。鍋と火と米と人。夕張と同じだった。しかし大阪の炊事場は、夕張より大きかった。港には物が流れていた。米が流れ、味噌が流れ、軍靴が流れ、薬が流れた。尹は物の流れを見た。夕張では人の流れを見ていた。大阪では物の流れを見た。

内戦が始まると、物の流れは戦争の流れになった。

尹は飯場の炊事場から、前線への食糧輸送を組み始めた。誰に命じられたのでもなかった。飯場の女たちが手伝った。米を量り、塩を詰め、梱包し、鉄道の貨車に積み込む。食糧は弾薬より先に腐る。腐る前に届けなければならなかった。

朴は大阪で尹に再会した。二年ぶりだった。朴は何も言わなかった。尹も何も言わなかった。尹は補給線の報告を出し、朴はそれを読んだ。報告は正確だった。数字がすべて合っていた。


一九四〇年の秋、戦線が動いた。

九月、仙台の「国体護持義勇軍」が関東平野に南下した。天皇親政を掲げる青年将校たちだった。彼らは人民側でも統制派でもなかった。第三勢力だった。三つ巴の内戦になった。

仙台軍は群馬から東京北部に進出し、統制派と交戦した。東京政権は二正面を強いられた。西から人民側、北から仙台軍。統制派の兵力は分散した。

朴はこの動きを利用した。仙台軍と人民側は共闘しなかった。思想が違いすぎた。しかし同じ敵を同時に叩いている限り、事実上の共同作戦だった。

十月、人民側は浜松を取った。鉄道労働者が機関車を動かし、砲兵工廠で作った弾薬を前線に運んだ。朴のセル構造が輸送計画を立てた。紡績工場の女工たちが弾帯を縫った。尹英淑が北海道から大阪に来ていた。炊事場のネットワークを、今度は兵站の補給線に変えていた。

浜松の戦闘は三日間続いた。忠誠部隊の一個連隊が守備していた。人民側の攻撃部隊は、呉から上陸した海軍陸戦隊と、大阪から東進した労働者民兵の混成だった。

十月十五日午前四時、海軍陸戦隊が浜松港から上陸した。二百名。同時に民兵一千名が西から攻撃した。忠誠部隊は挟撃された。

二日目に連隊長が降伏交渉を求めた。三日目の朝、白旗が上がった。人民側の死者十八名。忠誠部隊の死者二十三名。降伏した兵士のうち、百名以上が人民側に合流した。


二の二

一九四一年に入ると、東京政権は消耗していた。

石炭が来なかった。九州と北海道の炭田が人民側にある以上、東京の工場は動かなかった。常磐炭田——福島と茨城の小規模炭鉱——が最後の供給源だったが、出炭量は全盛期の三分の一だった。

食糧も細った。東北の農村は仙台軍の支配下に入り、関東平野の米は戦場で踏み荒らされていた。配給は一日二合に減った。

山本の航空隊は大阪湾と瀬戸内海の制海権を握っていた。山本は革命を信じていなかった。しかし革命政権の下で、航空派閥は海軍の中核を握ることができた。大艦巨砲の時代は終わった——山本にとって、それは思想ではなく予算だった。

東京政権は崩壊しつつあった。統制派・財閥残党・海軍守旧派の異質な三者連合が、長期化で分裂していた。

四月、忠誠艦隊の戦艦「長門」が横須賀で動けなくなった。燃料の重油が尽きたのだった。戦艦は港に浮かぶ鉄の塊になった。

朴は前線には出なかった。設計者は前線にいるべきではなかった。大阪の倉庫で地図を広げ、報告を読み、指示を出した。

野坂が前線との連絡を担った。朴と野坂は天皇問題以来、会話が減っていた。しかし仕事は続けた。革命は私情で止まらなかった。


二の三

一九四一年の春、尹英淑は大阪港の第六倉庫にいた。

倉庫の中は薄暗かった。天窓から光が入り、積み上げられた木箱の影が床に伸びていた。木箱には番号が打ってあった。一から順番ではなかった。欠けた番号があった。欠けた番号の箱は、すでに前線に送り出されていた。

尹は帳簿を持っていた。

帳簿の左列に品目、右列に数量。米、塩、乾燥芋、缶詰、包帯、消毒液、防寒外套——外套は軍服の規格に合わせた寸法で仕立てた。縫ったのは大阪の女工だった。尹が夕張の炊事場で使っていた女工ではない。大阪の紡績工場を出た女工が、炊事場のネットワークに入ってきた。顔を知らない者が、仕事で結びついていた。

帳簿の一行に誤りがあった。消毒液の数が、先週の記録と合わなかった。一割少なかった。

尹は倉庫の奥に声をかけた。朝鮮語だった。

「チェ・ソンジャ。消毒液、もう一度数えて」

箱の陰から声が返った。朝鮮語だった。しばらくして、数字が戻ってきた。帳簿の数字と一致した。先週の記録が間違っていた。

尹は先週の欄を線で消し、正しい数字を上に書いた。日本語で書いた。

帳簿は日本語で書かれていた。報告書を受け取る者が日本語で読むからだった。野坂の委員会も、輸送計画の承認者も、日本語の書類を前提にしていた。尹は日本語で品目を書き、日本語で数量を書き、日本語で輸送先を書いた。しかし倉庫の中では朝鮮語で指示を出した。女工は朝鮮語の方が速かった。日本語の指示は、一拍遅れることがあった。

炊事場から始まったネットワークは、今では食糧だけではなかった。

夕張の炊事場は、炭鉱の飯を作る場所だった。人が集まり、物が集まり、情報が集まった。大阪に来て、尹はその構造を変えた。飯の代わりに物を仕分けた。炭鉱の坑道の代わりに、鉄道の路線を使った。夕張から美唄、函館から大阪に続く炭鉱の繋がりが、今は輸送の経路になっていた。石炭を運んだ人間が、今度は外套を運んだ。

薬の輸送は難しかった。

消毒液は重い。包帯は嵩張る。医療用の縫合糸は特定の保管条件が必要だった。前線の衛生兵から要請が来ていた——モルヒネは要らない、縫合糸と包帯だけでいい、傷を縫えれば助かる者がいる。要請を書いた紙は衛生兵の字だった。字が揺れていた。疲れている字だった。

尹は薬の輸送専用の経路を作った。

鉄道の貨車ではなく、人が持ち運ぶ経路だった。一人あたりの荷は軽くした。名古屋まで五人、名古屋から浜松まで三人、浜松から前線まで二人。人が変わるたびに、荷を渡す。渡す場所は、炊事場のある場所だった。飯を食う場所に人が来る。人が来れば、荷を渡せる。

帳簿を閉じると、尹は次の報告書を書き始めた。

報告書は野坂の委員会に送るものだった。薬品輸送の新経路の概要。人数と日数と費用の見積もり。日本語で書いた。きれいな字だった。夕張では帳簿を付けていた。大阪では報告書を書いた。書類が増えるほど、ネットワークが大きくなった。

倉庫の外で、港の音がしていた。波の音。荷揚げの声。物が動く音。

尹は報告書を書き続けた。窓の光が傾いていた。


一九四一年の冬、転換点が来た。

十一月、仙台軍が崩壊した。東京政権との交戦で青年将校の半数が戦死し、残った者たちは農村に散った。天皇親政の夢は、補給なしには維持できなかった。

東京は北の脅威がなくなったが、もう手遅れだった。西からの人民側は静岡まで進出していた。東海道の主要都市——浜松、静岡、沼津——は人民側にあった。残るは箱根の山だけだった。

十二月、朴は総攻撃を命じた。

箱根の峠道を、人民側の部隊が三方から攻めた。小田原から正面。熱海から南。御殿場から北。兵力は合計一万二千名。忠誠部隊の守備は三千名だった。

三日間の山岳戦だった。冬の箱根は雪が積もり、道が凍った。戦車はなかった。歩兵と砲兵の戦いだった。

十二月十五日、小田原から突入した部隊が箱根湯本を制圧した。翌日、御殿場からの部隊が芦ノ湖畔に達した。守備隊は分断された。

十二月十七日の夜、守備隊の連隊長が降伏した。人民側の死者百三十七名。忠誠部隊の死者九十二名。箱根の雪は赤くなった。赤い雪——三年前の夕張と同じ名前が、別の場所でまた使われた。しかし今度は雪が溶ける前に、旗は立ったままだった。

箱根を越えた後、関東平野が開けた。

小田原から平塚まで、忠誠部隊の姿はなかった。道路に軍靴の跡だけが残っていた。靴は東を向いていた。逃げた方角だった。

一月、横浜の造船所で労働者が門を閉じた。兵士が来る前に、労働者が先に動いた。朴の指示ではなかった。朴はまだ大阪にいた。横浜の労働者は、大阪の蜂起を新聞で読み、自分たちで決めた。自発だった。組織されていなかった。しかし今度は——夕張の赤い雪とは違い——自発が機能する状態にまで、帝国が弱っていた。

二月、東京では配給が止まった。灯油がなくなり、水道管が凍結で破裂した。忠誠部隊の兵士が持ち場を離れ始めた。脱走ではなかった。家族のもとに帰っただけだった。銃を路肩に置いて歩いていく兵士を、誰も止めなかった。


三の後

三月の最初の週、忠誠部隊は壊れた。

壊れ方は静かだった。

横浜の第三防衛大隊——天皇直属の儀仗兵連隊を母体に編成された部隊——が、二月二十四日の未明に駐屯地の正門を開け放った。炊き出しの米が五日前に尽きていた。兵士たちは隊列を作り、正門を出た。軍旗は置いていった。軍旗を置いていった理由を、後に誰かが記録した——「重かったから」。

連隊長の三宅大佐は追わなかった。追えなかった。兵士たちが去っていく背中を、三宅は将校宿舎の窓から見た。窓ガラスが結露していた。三宅は袖でそれを拭いた。外は晴れていた。三宅は翌朝、拳銃を机に置き、参謀長に電話した。降伏交渉の打診だった。

白旗は三宅が出した。

三宅は帝国陸軍士官学校十九期。日露戦争の後に任官した世代だった。革命を憎んでいた。しかし二月末の横浜で、革命を憎む感情よりも、戦える状態ではないという事実の方が重かった。連隊の実効兵力は最盛期の四分の一だった。残存弾薬は二日分。重砲は燃料不足で動かなかった。

三宅の電話が東京政権の参謀本部に届いた。参謀長の塚原中将は即答しなかった。塚原は三宅の電話を切った後、自分の部下四人を集めた。議論は二時間かかった。

議論が続いた理由の一つは、降伏交渉を始めた場合に誰が名前を出すか、という問題だった。名前を出した者は歴史に残る。二時間の議論は、実質的には名前を出したくない者たちの押し付け合いだった。

最終的に、降伏交渉の窓口役を引き受けたのは山縣大佐だった。山縣は「誰かがやらなければならない」と言った。山縣に英雄心があったかどうかは不明だった。しかし消去法で名前が残った男は、結果として歴史書に名前が残ることになった。

山縣が人民側に連絡したのは三月二日だった。

接触先は人民側の政治委員会だった。山縣の書簡は一枚の紙に三行で書かれていた——条件交渉の意志を示す、天皇の安全を求める、回答を待つ。

返答は三日後に届いた。野坂が署名していた。


朴が受け取った報告は、三月五日の夜だった。

野坂の使者が大阪に来た。山縣書簡の写しと、野坂の所見を添付した報告だった。野坂の所見は簡潔だった。「条件は受け入れ可能。ただし交渉が長引けば民間の混乱が拡大する。速やかな決着を推奨する」。

朴は書簡の写しを三度読んだ。

山縣という名前は知らなかった。しかし書簡の三行の文体から、山縣が自発的に動いた男ではないことは読めた。誰かに名前を出させられた。そういう文体だった。

朴は野坂に返電した。「速やかな決着に同意する。条件の二項目——天皇の身体的安全と降伏軍人への恩赦——を確認次第、交渉を進めよ」。

返電を書き終えた後、朴は地図を見た。東京の地図だった。皇居を中心に、忠誠部隊の最終防衛線が書き込まれていた。その防衛線の外側に、人民側の進出ラインが引かれていた。二本の線の間の距離は、縮まり続けていた。

三月七日夜、品川の忠誠部隊守備隊が持ち場を離れた。ひとつの小隊が、命令なしに撤退した。報告によれば、小隊長の中尉は部下に「帰れ」と命じた後、自分はその場に残った。翌朝、人民側の斥候がそこに来たとき、中尉は敬礼した。斥候の兵士は十九歳の元炭鉱労働者だった。どちらかが先に何かを言ったかどうかは記録に残らなかった。

その夜、守備を続けていた第七機動大隊が東京北部の陣地を放棄した。大隊の装甲車両は道路わきに整列させて置かれていた。燃料が空だった。装甲車十一両が、誰も乗っていないまま道路に並んでいた。

三月八日、東京政権の閣議が最後の会合を開いた。出席者は七名だった。開戦前の閣僚は三十名いた。残りは逃げたか、死んだか、すでに降伏交渉の側に回っていた。

七名の議題は一つだった——降伏条件の受諾。

議論は短かった。二十分で終わった。長い議論をする気力が、七名には残っていなかった。採決は全員一致だった。反対する者がいなかったのではなく、反対できる者が残っていなかった。

閣議の後、一人の閣僚が紙に書いた——「天皇の御身は守られた。これ以上の抵抗は無意味である。記録に残す」。紙は机の上に置かれた。持ち帰る者はなかった。翌日、人民側の記録員がその部屋に入り、紙を拾い上げた。

同じ日の午後、皇居の東門守備隊が武器を積んだ荷車を東門前に置いた。荷車には銃が積まれていた。百三十七丁。積み上げられた銃は、荷車の縁から飛び出していた。守備隊の指揮官は荷車の横に立ち、人民側の先遣隊が来るのを待った。

先遣隊が来るまで、二時間かかった。


一九四二年の春、東京が陥落した。

正確には降伏だった。箱根を失った東京政権に、もう防衛線はなかった。一月から二月にかけて、忠誠部隊の脱走が相次いだ。兵士たちは武器を置いて家に帰った。帰る家がまだある者は。

三月二日——赤い雪の四周年の翌日だった——東京政権の残存指導部が交渉を求めた。条件は二つだった。天皇の身体的安全の保障と、降伏した軍人への恩赦。

朴は条件を受け入れた。受け入れざるを得なかった。天皇の象徴化はすでに決まっていた。降伏条件はその延長線上にあった。

三月八日、人民側の先遣隊が東京に入った。先頭を歩いたのは、呉叛乱から三年戦い続けた海軍陸戦隊の小隊だった。下士官たちの靴は擦り切れていた。

皇居の門前で、旧守備隊の兵士が武器を置いた。菊の紋章の腕章が外され、代わりに赤い布が巻かれた。門は開いたまま放置された。


内戦は終わった。二年間で、日本は壊れ、別のものに変わった。

朴は東京に入らなかった。大阪に残った。建国の準備に入った。

野坂が東京で政権移行の実務を担った。徳田が旧体制側との折衝にあたった。朴は連邦の設計図を書き始めた。

大阪の倉庫で、朴は壁に大きな地図を貼った。日本列島。朝鮮半島。台湾。満洲。東南アジア。帝国が支配した領域の全体が、壁一面に広がっていた。

朴はその地図の前に立ち、鉛筆で線を引いた。連邦の境界線だった。どこからどこまでが一つの国になるのか。どの民族がどの権利を持つのか。二十年間、地下に潜っていた男が、地上に国を描く番だった。

帆布の小袋は、朴の机の引き出しにあった。金廷民の紙片は、もう取り出されることはなかった。地図は新しい紙に描かれた。