第八章 象徴


昭和天皇は、窓の外を見ていた。

一九四二年の夏、皇居はまだ皇居だった。しかし門の前に立つ兵士の腕章が変わっていた。菊の紋章ではなく赤い星だった。

天皇は五十歳になっていた。戦争中、皇居から出なかった。出る必要がなかった。出られなかったとも言える。統制派政権は天皇を「守る」という名目で皇居に留め、天皇の名で命令を出し続けた。天皇が実際に命令を出したことは、内戦の間一度もなかった。

今、天皇の前に書類が置かれている。新しい憲法の草案だった。「象徴天皇制」という言葉が、第一条に書かれていた。

天皇は書類を読んだ。ゆっくり読んだ。一条ずつ、指で活字を追った。指先は細く、爪が短く切られていた。生物学者の手だった。海洋生物の標本を扱うときと同じ慎重さで、天皇は自分の権力の解剖図を読んでいた。

窓の外で蝉が鳴いていた。皇居の庭の蝉だった。内戦の間も蝉は毎年鳴いた。砲声が届く日も鳴いた。

侍従が控えていた。侍従は天皇の表情を見ていたが、表情はなかった。天皇の手だけが動いていた。紙の上を、一条ずつ。


野坂参三が皇居を訪れたのは、憲法草案を届けるためだった。

野坂は革命政権の中で、天皇との交渉窓口に指名されていた。朴は「自分が行くべきではない」と言った。朝鮮人が天皇に憲法を突きつける絵面は、革命の正統性ではなく民族的復讐として読まれる——朴はそう判断した。計算だった。

野坂は皇居の廊下を歩いた。長い廊下だった。靴音が反響した。

天皇は応接間で待っていた。二人は机を挟んで座った。茶が出された。

野坂は草案を説明した。天皇は聞いた。質問は一つだけだった。

「国民はこれを望んでいるのか」

野坂は答えた。「人民評議会で投票が行われました。過半数の支持を得ています」

天皇は頷いた。それ以上の質問はなかった。


天皇が象徴化を受け入れたことは、革命政権内で二つの反応を生んだ。

野坂は安堵した。天皇が抵抗すれば、国民の間に分裂が起きる。天皇が受け入れたことで、革命は「天皇の意志に反するクーデター」ではなく「天皇も承認した体制移行」として語られる余地が生まれた。

朴は何も言わなかった。

講座派——天皇制の絶対性を理論の根幹に据えていたマルクス主義者たち——は、敗北した。天皇制は廃止されなかった。天皇は殺されなかった。天皇は生き残り、形を変え、新しい国の中に座り続ける。

朴にとって、これは三度目の裏切りだった。

一度目は民族の旗(3・1運動)。二度目は革命の旗(自由市事件)。三度目は、自分が作った革命そのものだった。革命は天皇を倒すために起こされ、天皇を残すことで完成した。

朴はその矛盾を口にしなかった。口にする言語を持っていなかった。


ベルリン。一九四二年。

外務省東アジア課の執務室は、八月でも昼間から薄暗かった。窓の外、ウンター・デン・リンデンを渡る風は乾いていた。西部戦線の戦況地図が壁に貼られ、赤い矢印が昨週より一センチ西に動いていた。

ハインリヒ・フォン・レッツォウは、机の前で自分の字を見ていた。

かつてなら口述しただった。秘書がタイプライターを打ち、清書された報告書に署名した。タイプの字は整然とし、余白は均等で、それがdas Reichの文書というものだった。昨年からレッツォウはタイプライターを使わなくなっていた。今年の春からは、口述も止めた。自筆だった。

理由を問われたことはなかった。誰も気づいていないか、気づいていて黙っているかのどちらかだった。

変化は段階的で、誰にも気づかれなかった。レッツォウ自身も、意図して変えたわけではなかった。

レッツォウは手元の便箋に、続きを書いた。

——極東革命政権は、天皇制を廃止しなかった。廃止するかわりに、天皇の権能を「象徴」の範囲に限定する憲法草案を成立させた。

——この決定の意味について、小職は以下の解釈を提出する。

——第一。天皇制の存続は革命の失敗を意味しない。革命は制度を廃絶しなくとも、制度から権力を抜き取ることができる。権力の空洞化が完成した時点で、形式の保存は政治的コストを下げる手段に転じる。

レッツォウはそこで一度ペンを止めた。廊下を誰かが歩く音がした。遠ざかった。

この分析は、二十ページ先の含意に向かっていた。帝国は天皇を持たない。しかし帝国にも「象徴」はある。カイザー(Kaiser)という称号が、憲法第一一条で最高指揮権として定義され、第三条で神聖不可侵と記されている。問いは、ここにある——権力の実態が「象徴」に変わったとき、その「神聖不可侵」は何を意味するか。

レッツォウは、この問いを便箋に書かなかった。

問いは紙の外にある。書くものではない。しかし考えないでいることもできなかった。

——第二。残余王権の統合機能について。天皇制の「象徴化」は、旧帝国の中産層と農民層に対して、連続性の幻象を提供する。革命の正統性は、破壊の深度ではなく継続の技法によって担保される。これは教科書的な結論ではない。日本の革命が実証した、新しい手法の記述である。

——第三。本件についてのベルリンの関心に関して。現時点では、日本人民共和国の「象徴天皇制」は東アジアの局地的変動として扱われている。しかし小職は、より広い射程で注視することを要請する。革命が既存の王権装置を解体せずに接収する方法論は、単一の事例にとどまらない可能性がある。

レッツォウはペンを置いた。

手が疲れていた。以前はなかった疲れ方だった。口述の筋肉と、書く筋肉は別物だった。

机の引き出しを開け、昨年の便箋の束を確認した。一九四一年以降に書いた自筆の覚え書きが、束になっていた。タイプされ清書され公文書になったものとは別の束だった。こちらは公文書ではなかった。宛先のない文書だった。

レッツォウは新しく書いた三枚を束の中に入れ、引き出しを閉めた。

窓の外でウンター・デン・リンデンの街路樹が揺れた。ベルリンは戦争中だった。しかし八月の並木道は、戦争の前から同じ形で揺れていた。


一九四二年の秋、毛沢東が日本を去った。

毛沢東は一九三五年から日本に滞在していた。七年間。朴のネットワークを経由して密入国し、北海道の炭鉱地帯と東京の地下組織の間を行き来しながら、日本の革命を観察し、自分の革命のための教訓を集めていた。

毛沢東が日本で学んだことは三つだった。組織の物質的基盤の重要性。敵の内部矛盾を読む方法。天皇制の象徴的統合力の研究——「農民の忠誠を革命に向けるには天皇に代わる別の大義が必要」。

象徴天皇制が決まった翌日、朴は大阪の倉庫で毛沢東と顔を合わせた。七年間で数えるほどしかなかった直接の対面だった。

毛沢東は瘦せていた。七年前と顔の輪郭は変わらなかったが、目が違った。北海道の炭鉱から東京の地下印刷所まで、日本の内側を歩き続けた目だった。敗れた革命の死因を数えてきた目だった。

倉庫の外では荷役の声がしていた。毛沢東はその声を聞きながら言った。「日本の農民は最後まで蜂起しなかった」。批判ではなかった。確認だった。自分の農村根拠地論を裏側から照らす事実として、七年間かけて集めてきた答えだった。

毛沢東は立ち上がり際に言った。「中国の農民は天皇を持たない。土地と飢えがある。それだけで条件は変わる」。朴は頷かなかった。毛沢東の農村根拠地論は、日本に来る前からあった。日本で見たものは、その論を照らす材料だった——使える教訓か、繰り返してはならない失敗の見本かに分類するための、七年間の実験台だった。

毛沢東は湖南訛りの日本語で、一つだけ聞いた。

「天皇を生かしたのは、計算ですか」

朴は答えた。「計算だ」

毛沢東は頷いた。それ以上は聞かなかった。二人の間に、それ以上の言葉は必要なかった。互いが何を計算しているかを知っていた。互いの計算が別の場所に向いていることも知っていた。

毛沢東は朴に別れを告げなかった。その三日後の朝、朴の連絡員が「客が発った」と報告した。毛沢東は奉天経由で満洲に渡り、そこから中国内陸に向かった。

朴は報告を聞き、帳面にその日の日付を書いた。毛沢東の名前は書かなかった。

毛沢東が日本で見たもの——天皇を殺さずに革命を完成させるという選択——は、後に中国革命の中で別の形を取ることになる。しかしそれは、この物語の外の話だった。


鬼頭誠一郎は、机の前にいた。

一九四二年の秋、特高警察は事実上機能を停止していた。正式な解散命令はまだ出ていなかった。しかし東京が陥落し、平沼が降伏文書に署名した後、特高の庁舎からは人が消えていった。ある者は私服に着替えて街に紛れた。ある者は故郷に帰った。焼却炉が三日間燃え続けた。

鬼頭は残った。

他の者が焼却炉に文書を投げ込んでいるとき、鬼頭は自分の机の引き出しを開け、方眼紙を取り出した。「木村鉄雄」の名前と、十一年間の線の網を眺めた。

焼却炉で燃やすこともできた。しかし鬼頭は燃やさなかった。方眼紙を折り、胸ポケットに戻した。

鬼頭が残った理由は、忠誠心ではなかった。恐怖でもなかった。鬼頭は、革命が天皇を殺さなかったことを知っていた。天皇が生き残ったということは、統治の構造が生き残ったということだった。鬼頭はかつて、天皇制を代替可能な装置だと考えた。今、それが証明されようとしていた。菊の紋章が赤い星に変わり、装置は回り続ける。

鬼頭はそれを見届けたかった。見届けるには、ここにいるしかなかった。

新政権の人間が庁舎に来たのは、十一月だった。文書の接収だった。鬼頭は抵抗しなかった。鍵を渡し、棚の配置を説明した。新政権の担当者は鬼頭を見て、少し考え、「整理を手伝え」と言った。

鬼頭は頷いた。


一九四三年、建国準備が本格化した。

大阪の倉庫はもう倉庫ではなかった。暫定政府の庁舎になっていた。朴の机には連邦憲法の草案が広がっていた。

連邦評議会の投票権が問題になった。人口比か、一国一票か。朝鮮側が一国一票を求めた。人口比なら日本が常に多数を占める。

朴は草案に「人口比例」と書いた。革命の論理としては正しかった。ペン先が紙を引っかく音が、倉庫の中に響いた。

朴は設計に集中するとき、朝鮮語を忘れた。日本語で考え、日本語で書き、日本語で指示を出した。連邦の公文書は日本語で起草された。翻訳は後回しにされた。

野坂がそれを指摘したことは、一度もなかった。