第九章 建国
一
一九四四年の春、日本人民共和国が建国された。
式典は大阪城の広場で行われた。朴は壇上に立たなかった。壇上には野坂と徳田がいた。朴は群衆の後方にいて、式典の進行を見ていた。
壁に、新しい国の地図が貼られていた。日本列島。朝鮮半島。台湾。南樺太。地図の上では、すべてが一つの色で塗られていた。
朴はその地図の前を通り過ぎた。立ち止まらなかった。
来賓席は埋まっていなかった。最前列に並ぶべき外国公使館の椅子は、半分が空いた。ソ連大使代理が一名。フランス・コミューン側の「貿易代表」を名乗る男が一名。それだけだった。ドイツはこの建国を公式に認知しなかった。英連合も、米国も、黙っていた。
祝電の一覧が壇上で読み上げられた。四通。スターリン名義の電報が最初で、残る三通は朴が知らない組織の名前だった。コミンテルン系の海外支部か、あるいは紙の上にしか存在しない団体か。読み上げの声が広場に響き、群衆は拍手した。
旗は二本立っていた。新国旗と、野坂が持ち込んだソ連製の赤旗。風がなく、どちらも垂れていた。
大阪城の外堀の向こうに、壊れたままの屋根が見えた。内戦の砲撃で崩れた民家の屋根。誰も修繕していなかった。建国式典の日に、補修の職人はいなかった。
朴は広場の端で、旗の色と空席を見ていた。
式典を見に来た群衆は、二万人いた。彼らは祝っていた。内戦が終わり、新しい国になった。それは本当のことだった。しかし群衆の多くは、この国が世界に承認されていないことを知らなかった。知らなくても困らなかった。今日の飯は今日炊く。明日の配給券は明日並んでもらう。承認状よりも米の方が重かった。
奉天。一九四四年。
電報が届いたのは、午前の遅い時刻だった。
趙維光は奉天毎日の編集室で、翌日の一面割付を直していた。電報は東京発の通信社電だった。「日本人民共和国、正式建国宣言。大阪城にて式典挙行。参加者約二万」。
趙は電報の紙を持ち、主任の机に持って行った。主任は読み、ちょっと考え、「記事にしろ」と言った。「内容は?」と趙は聞いた。主任は言った。「建国宣言があったという事実。あとは向こうの声明を訳して添える。それだけ」。
趙は自分の机に戻った。
書ける記事と書けない記事の区別は、今年に入ってから変わっていた。占領行政が変わったからではない。構造は同じだった。しかし書ける側の記事が増えていた。それは変化ではなく、余白の問題だった——余白が増えた分だけ、書けない部分がより明確に見えた。
趙は原稿用紙に書き出した。
——大阪発の報道によれば、日本人民共和国は本年四月の建国宣言をもって正式に成立した。式典は大阪城広場にて挙行され、約二万の市民が参加した。新政権は旧日本帝国の統治機構を引き継ぎつつ、人民評議会を最高議決機関とする新憲法を制定。天皇は象徴的地位に留まるとされる——
趙はそこで止まった。
「象徴的地位」。この言葉は検閲を通過する。通過するから書ける。しかし趙が書きたいのは、「象徴的地位に留まるとされる」の意味——旧帝国の核が、形だけ残されて権力を抜き取られた、その技法の意味——だった。それは書けない。書けば削られる。削られる前に、趙自身が書かない判断をする。その判断が、十年続いていた。
趙は記事の続きを書いた。
——新政権は各国の承認を求めているが、現時点でドイツ帝国、英連合、米国はいずれも正式な承認を表明していない。ソ連は「注視」の立場を維持しており——
「注視」。ドイツが使った言葉と同じだった。
趙は原稿を横に置き、引き出しを開けた。
引き出しの底に、折り畳まれた紙があった。一九三五年から入っている。九年間、捨てていない。天気の記事を書いた日に書き始めた——三月一日、奉天、晴れ。気温は前日より三度低い。それが新聞に載った記事だった。書けなかった記事は、引き出しに入れた。その後も何度か続きを書いた。書いては折り畳んだ。
趙は折り畳まれた紙を開いた。最後に書いた部分は、一九三八年だった。「国境の向こうで何が起きているかを、私は知っている。知っていて、書かない。書かないことで、私は何になるか」。
その問いへの答えを、趙はまだ書いていなかった。
今日、書けた。
——日本の革命は天皇を廃しなかった。廃しなかったということは、革命が権威の器を必要としているということだ。器の中身を入れ替えることと、器を割ることは、同じ革命ではない。同じ結果をもたらさない。満洲に住む者として、私は問う——この区別は、誰のためにあるか。
——旗が変わった。式典があった。大阪城の壁に、地図が貼られた。地図の上で、朝鮮も台湾も日本列島と同じ色で塗られていた。色が同じであることと、重さが同じであることは、別の話だ。
趙はそこで止まった。
外から自動車の音がした。趙は紙を折り畳み、引き出しに戻した。
公式原稿の方を引き寄せた。「約二万の市民が参加し、新国家の建国を祝った」と書いた。「祝った」という言葉は正確だった。電報にそう書いてあった。趙が見ていないものを否定する言葉を、趙は持っていなかった。
記事を主任に提出した。主任は赤鉛筆を一箇所入れ、「これでいい」と言った。
翌朝の一面に、記事は載った。八段。写真なし。見出しは「日本人民共和国、正式建国」。横に、ドイツ軍の西部戦線情報が五段で載った。日本の建国より、ヴェルダンの方が大きかった。
趙の引き出しの中で、折り畳まれた紙は増え続けた。
二
朴は山本五十六を観察していた。
建国式典の翌週、人民海軍の編成会議があった。山本は机の端に座り、呉から引き揚げた残存艦艇の一覧表を広げた。戦力の再編案を一隻ずつ読み上げた。声は淡々としていた。革命家の声ではなかった。予算を語る声だった。
しかし朴は山本を信用していなかった。呉叛乱で「不作為」によって革命を助けた男。航空予算が確保でき、旧来の大艦巨砲派を追い落とせるなら、革命でも軍事独裁でも構わなかった。朴はそれを知りながら山本を使った。
知りながら使う——その行為について、朴は何も言わなかった。会議は次の議題に移った。
三
スターリンが到着したのは、一九四三年の秋だった。
ヨーロッパでは第二次Weltkriegが四年目に入っていた。ドイツ帝国は西部戦線でフランス・コミューンを押し込み、英連合はドーヴァーの防衛に手を取られていた。極東に注意を払う余裕は、どの国にもなかった。日本人民共和国が建国しようとしていることを、ベルリンもロンドンも知っていた。しかし動ける者はいなかった。
神戸の倉庫街では、欧州向けの輸送船が岸壁に繋留されたまま動かなかった。航路が閉じていた。北大西洋は独英の海軍が制圧し、インド洋のルートも不安定だった。横浜では荷役の作業員が半分になっていた。仕事がなかった。
大阪の闇市では、ドイツ製の部品が消えた。三年前まであった精密機械の工具。ライカのレンズ。モーゼルの弾薬。代わりに並んだのは、素性が不明の工具類と、ソ連製の缶詰だった。缶詰にはロシア語の印刷があり、ラベルを日本語で上書きした紙が貼られていた。「魚の煮付」と書かれていた。
ラジオは毎晩、ヴェルダンの戦況を伝えた。人民政府が接収したNHKの後継放送は、戦線の動きを「国際革命の進展」として報じた。リスナーは地図を持っていなかった。ヴェルダンがフランスのどこにあるかを知る者は、大阪の工場街にはほとんどいなかった。しかしラジオの声は毎晩流れた。ドイツが東に後退したか西に押したか、前夜と今夜で言い方が変わった。どちらが正しいかを確かめる手段が、朴にもなかった。
新聞の一面もヴェルダンの地図を刷った。矢印の向きは日によって変わり、訂正記事は小さかった。
神戸に停泊しているドイツ東洋艦隊の巡洋艦が、一隻また一隻と動かなくなった。燃料がなかった。乗組員は岸壁でトランプをしていた。彼らは戦争をしに来たのではなく、戦争から取り残されていた。日本人の港湾労働者は彼らに話しかけなかった。言葉が通じなかった。
その空白が、朴の計算だった。
建国宣言の半年前。野坂が歓迎式典を手配した。朴は式典に出席したが、壇上には立たなかった。遠くから見ていた。
スターリンは六十五歳だった。パタゴニアの失敗とフランス・コミューンでの孤立を経て、肉体的にも政治的にも消耗した男が、異国の港に降り立った。外套が体に合っていなかった。痩せていた。髭は白かった。港には秋の風が吹き、潮の匂いと群衆の汗の匂いが混じっていた。
通訳越しに「レーニンの遺志がここに」と述べた。通訳の日本語は正確だったが、スターリンのロシア語には朴が覚えているウラジオストクのロシア語とは違う響きがあった。グルジアの訛りだった。
朴は群衆の後方で、その声を聞いていた。群衆が拍手した。朴の手は動かなかった。
朴は式典が終わるのを待ち、倉庫に戻り、連邦憲法の草案に戻った。
スターリンが来て、世界は変わらなかった。
ベルリンからの外交電報は来なかった。ロンドンからも来なかった。ワシントンは沈黙していた。フランス・コミューンのパリ本部からは、祝意を示す私信が一通届いたが、政府の名義ではなかった。党書記の個人署名だった。
それが現実だった。スターリンが日本にいる。それはひとつの事実だった。しかし事実は承認ではなかった。亡命者の存在は、亡命先の国家を正当化しなかった。朴はそれを知っていた。野坂は知っていた。知りながら、歓迎式典を行い、通訳を用意し、群衆に拍手させた。
四
朝鮮の自治が進んだ。
朝鮮総督府の廃止令を起草した日、金日成が倉庫に来た。草案を読み、一箇所だけ修正を求めた。連邦評議会が持つと定めた自治局長の任命権を、朝鮮側の議政院に移す一行だった。
朴は草案の行を指で辿った。任命権の一語が移るだけだった。一語の移動で何が動くかを、朴は読めていた。金日成も朴が読めていることを知っていた。二人は草案の上で目を合わせなかった。
朴はペンを取り、修正を書き入れた。
朴はそれを知っていた。知りながら、止めなかった。朝鮮の自治は連邦の構成要素として必要だった。金日成の台頭は、その構成要素を動かすための燃料だった。
計算だった。
その頃、ラジオが報じた。ドイツ帝国が「日本人民共和国の現状を注視する」という声明を出した。「注視」という言葉だった。承認でも非難でもなかった。ベルリンは両正面の戦争で手が塞がっていた。声明の文面はベルリン放送が読んだ。朴の倉庫にあった短波ラジオが、雑音まじりにその声を拾った。通訳した者が「注視」と訳した。
原語はドイツ語で「beobachten」だった。見ている、という意味だった。動かない、という意味ではなかった。
カネトは前年に出獄し、二風谷に戻っていた。沙流川は、新しい国でも国有地のままだった。
カネトが村の行政窓口に行ったとき、書類はすべて日本語だった。土地の返還を申請する用紙も、日本語だった。カネトはそれを書いた。日本語で。アイヌ語で書く欄はなかった。
カネトが育てた若い労働者たちは、北海道の炭鉱を人民側に引き入れた功労者として名前が残っていた。カネト自身の名前は、どこにも残っていなかった。獄中にいた者は、功績の名簿に載らなかった。
建国から三ヶ月が経った。
人民政府の貿易局は、新しい航路の開拓を進めていた。大陸経由でソ連領沿海州へ。インドシナ経由でフランス・コミューンの後方へ。紙の上の計画は整然としていた。実態は違った。
沿海州ルートは石炭の輸送に使えた。北海道の炭鉱から積み出した原炭が、ウラジオストクの貯炭場に着いた。返しの荷は小麦粉だった。等価ではなかった。小麦の量が少なかった。ソ連側の担当者は「戦時調整」と言った。日本側の担当者はそれを受け入れた。代替の取引相手がなかった。
インドシナルートは、フランス・コミューンの代表と接触した際の約束に基づいていた。「銃は出せない。工作員が二名」という回答だった。工作員は到着したが、貿易の話はなかった。彼らが持ち込んだのは暗号通信の機材と、フランス語で書かれた組織論の冊子だった。通訳できる者が大阪にいなかった。冊子は保管箱に収められた。
鉄が足りなかった。銅が足りなかった。機械部品が足りなかった。新政府の工場再建計画は、部品の調達表に赤字の印が増えていた。「代替品を探せ」と書かれた指示が、調達担当の机に積み上がった。
大阪の町工場は動いていた。欠品の部品を、職人が手加工で作った。精度は落ちた。しかし動いた。
五
鬼頭誠一郎は、書類の山の中にいた。
一九四四年。革命政権が樹立され、特高は解散させられた。鬼頭は逮捕されなかった。三つの理由があった。朴の個人的な判断——「この男が私を泳がせた」という認識。特高の記録が新政権の情報機関にとって有用だったこと。そして、鬼頭を処刑せずに済ませることが、旧体制側の穏健な降伏を促す前例になること。
鬼頭は旧特高庁舎の一室で、文書の整理を命じられていた。膨大な監視記録、逮捕報告、密告の記録。革命政権が引き継いだ帝国の記憶だった。
鬼頭は方眼紙を胸ポケットから取り出した。「木村鉄雄」の名前と、十三年間にわたって引かれた線の網。名前と名前を結ぶ線は、今ではすべて意味を失っていた。追う必要がなくなっていた。追われる者が勝った。
鬼頭の目が方眼紙の端から端へゆっくりと動き、線の一本一本を辿り、最後に紙の余白で止まった。
鬼頭は方眼紙を眺め、折り畳み、胸ポケットに戻した。
鬼頭の机の上には、新政権の行政文書が積まれていた。書式が変わり、印章が変わり、用語が変わっていた。しかし文書を綴じる順序は同じだった。決裁の階層は同じだった。鬼頭はそれを毎日見ていた。
証明書の役割が始まった。「知っていながら待った」——その証明書を、鬼頭は自分で作ることができた。しかし作らなかった。方眼紙を持ち続けるだけだった。