第十章 道具


一九四四年の秋、石油備蓄の報告書が朴の机に届いた。

数字は簡潔だった。現在の消費速度で十八ヶ月。十八ヶ月後に工場が止まる。工場が止まれば革命が止まる。

朴は報告書を読み、机の上に置いた。窓の外は秋の大阪だった。工場の煙突から煙が上がっていた。十八ヶ月後、あの煙は止まる。煙が止まれば、石炭で動かした革命が石油の前で止まる。

朴は報告書の数字を帳面に写した。写しながら、帆布の小袋が引き出しの奥にあることを思い出した。最後に開けたのがいつだったか、思い出せなかった。


外交交渉は野坂が担った。

最初の接触は一九四四年の春だった。英国との接触ルートに、野坂の名前で書簡が届けられた。革命政権の存在を通知し、石油の商業取引を打診する内容だった。承認という言葉は使わなかった。野坂はそこを慎重に避けた。

英国公使館の返答は三週間後に届いた。一文だった——「革命政権の承認が前提条件である」。取引の前に、まず国として認めよ、と。しかし承認すれば、Weltkriegの敵国であるフランス・コミューンと同陣営に立つことになる。英国にその意思はなかった。前提条件は、拒絶の丁寧な言い換えだった。

野坂は二度目の書簡を送った。承認ではなく、事実上の通商関係を提案した。英国は返答しなかった。

米国への接触は、ハワイ経由で試みられた。米国の返答は英国に追随した。同じ一文だった。

ロシア——沿アムール共和国——には、三度書簡を送った。三度とも、返答は届かなかった。ボリシェヴィキの亡命者が作った国に、ロシアの現体制——ボリシェヴィキを追い出した側——が友誼を示す理由はなかった。


スターリンへの接触は、別のルートで進んでいた。

スターリンがパタゴニアから日本に到着したのは一九四三年の秋だった。六十五歳。南米での反ライヒスパクト工作から帰途につき、途中でインド洋の嵐に捕まり、寄港地を転々として横浜に入った。野坂の記録によれば、到着時のスターリンは「三ヶ月分の疲労を顔に貼り付けていた」。

スターリンを迎えた者は野坂だった。朴は大阪にいた。

野坂とスターリンは一九四三年の冬、三度会談した。スターリンは第三インター中央委員会の権威を背景に、日本の革命政権への関与を持っていた。しかしその権威は名目的なものだった。第三インターは既にモスクワに実体を持たず、散在する組織の連絡機関に近かった。スターリンが持つのは正統性の物語——「ボリシェヴィキ革命の系譜がここにある」という物語だった。

野坂が求めたのは、その物語だった。

承認。国際社会に向けて「革命政権は正統である」と言える存在が、一つでもあればよかった。英国も米国もロシアも認めないなら、第三インターが認めればいい。第三インターが認めれば、フランス・コミューンが続き、ドイツ国内の左翼組織が続き、少なくとも「孤立した内乱」という烙印は免れる。

スターリンはすぐには答えなかった。

三度目の会談で、スターリンは野坂に条件を出した。

条件は三つあった。革命政権の政策に関するコミンテルン式の「報告義務」。朝鮮と台湾への党組織の認可。そして——これが核心だった——将来の連邦拡大においてソ連系の影響圏を優先すること。

野坂は条件を記録し、大阪に送った。

朴は記録を一度読んだ。机の上に置いた。三日間、そこに置いたまま別の仕事をした。

三日後、朴は野坂に返電した。「スターリンとの交渉を続けよ。ただし三番目の条件は留保とする。署名しない」。

野坂は返電を受け取り、スターリンに伝えた。スターリンは「留保とはどういう意味か」と問い返した。野坂は「将来の協議事項」と答えた。スターリンは笑った。笑い方の意味を、野坂は後に書き残している——「嘲笑ではなかった。疲れた男の、苦い確認だった」。

四度目の会談は正式交渉になった。

文書が作られた。「相互承認に関する覚書」という名称だった。スターリンが第三インターを代表し、革命政権の存在を認める——という一方的な形式だった。「承認」という言葉は使われなかった。野坂が草案を書き、スターリン側の代理人が修正した。修正は三箇所。そのうち二箇所は文体上の問題だった。三箇所目の修正だけが実質的だった。

原案には「相互不干渉」という語があった。スターリン側はそれを「相互尊重」に変えた。

野坂は修正を受け入れた。大阪への報告には「三箇所の修正は軽微」と書いた。しかし朴はその報告を読んだとき、「相互不干渉」と「相互尊重」の差に線を引いた。線は赤ではなく黒で引かれた。鉛筆だった。

覚書は署名された。日付は一九四四年三月。スターリンの署名は大きく崩れていた。右手の震えは止まらなかった。


報告書がパリに届いたのは、署名から十日後だった。

ソローキンはそれをアパルトマンの台所で読んだ。ポリナが奥の部屋にいた。外はモンパルナスの春だった。窓は閉めてあった。

封筒の差出人はジュネーヴ経由の偽名だった。中の文書はロシア語だった。タイプライターで打たれた二枚。スターリンと日本革命政権の間で覚書が署名されたこと。「相互尊重」という語が使われたこと。第三インターが革命政権の存在を承認する形式であること。

「相互尊重」という語に目を止めた。

テーブルの上にコーヒーがあった。口はつけなかった。

「届いた」とソローキンはポリナに声をかけた。

奥の部屋から返事はなかった。

ソローキンは文書を再び手に取った。革命政権。一九四四年三月。横浜に入った老人がそこに署名した。その署名が何を意味するかについて、ソローキンは答えを持っていなかった。

第三インターは名目上の組織だった。モスクワは消えた。パタゴニアのスターリンが持ち出したとき、それはすでに概念に近かった。ソローキンはコミンテルン極東部の残務として、一九三八年以来パリに留まっていた。残骸の整理だった。

それでも、報告書は届いた。

ポリナが台所に入ってきた。ソローキンは文書を折りたたんだ。ポリナはそれを見たが、何も言わなかった。流しで水を使い、また奥に戻った。

ソローキンは文書をコートのポケットに入れ、街に出た。

カフェ・デュ・ドームまで歩いた。昼前で、席は三分の一ほど埋まっていた。ウェイターが来た。

「紅茶を」

朴永哲。木村鉄雄。ソローキンがその名前を知ったのは一九三六年のことだった。上海の連絡員からだった。「朝鮮人の革命家。党籍不明。コミンテルンの名を使っているが、組織には属していない」。当時のソローキンはその報告を整理棚の二番目の引き出しに収めた。重要度・中程度。フォローアップ要。

フォローアップはしなかった。翌年、モスクワが消えた。

一九三九年、ソローキンはその報告書を読み返した。「設計図とは別の論理で動いている」と鉛筆でメモした。朝鮮語で書いた。틀——枠組み——という語を使った。コロレワを函館へ送った年のことだった。コロレワはその後、消息を絶った。

紅茶が来た。ソローキンはポケットを探り、フランスの硬貨を取り出した。テーブルの上に置いた。

日本の革命家たちはコミンテルンという名を盾に使っていた。その盾には実体がない。スターリンの署名は石油を一滴も運ばない。承認と資源確保の距離を、革命政権の指導部が理解しているかどうか——ソローキンには、わからなかった。

「設計図とは別の論理」が、予想より早く動いた。朴(木村)はコミンテルンの틀を外部から借用した。組織に属さずに、組織の名前だけを使った。

「わからない」とソローキンは小声で言った。朝鮮語だった。

窓の外を馬車が通った。戦時のパリではガソリンが制限されていた。スマトラの油田がどこにあるかを、ソローキンは地図で知っていた。

設計は続いていた。ただし、設計者が誰かという問いへの答えは、変わっていた。

ソローキンは紅茶を飲み終えた。テーブルの上の硬貨を眺めた。立ち上がり、コートを着た。カフェを出た。


覚書が届いた翌週、英国から書簡が来た。今度は一文ではなかった。四段落の文書だった。

第一段落——第三インターとの覚書を遺憾とする。第二段落——革命政権の性格について懸念を示す。第三段落——通商取引の可能性について将来の検討を留保する。第四段落——正式な外交関係の樹立には依然として承認が前提条件である。

野坂はこの書簡を「外交的前進」と評価した。一文だった拒絶が四段落になった。留保という語が初めて現れた。

朴は野坂の評価と書簡の両方を読んだ。机の上で二枚の紙を並べた。

野坂の評価は正確だった。四段落への変化は前進だった。しかし前進の速度と、石油備蓄の消耗速度は、釣り合っていなかった。

十八ヶ月——朴の机には、石油備蓄の数字があった。外交が十八ヶ月以内に石油供給を確保できる見込みは、野坂の楽観的な評価でも三分の一以下だった。英国が段階的に接近してくるとしても、正式取引の開始まで最低でも二年はかかる。スターリンの覚書は象徴的意義はあったが、石油は一滴も持ってこなかった。第三インターに油田はなかった。

朴は二枚の紙を重ね、机の端に寄せた。


一九四四年六月、米国への第二次接触を試みた。今度は通商打診ではなく、情報提供を対価にした接触だった。野坂の発案だった。提供する情報はドイツ東洋艦隊の動静——人民側の諜報網が収集していた。価値のある情報だった。

米国は返答した。

返答の内容は、英国の最初の一文とほぼ同じだった。「承認が前提条件である」。情報の価値を否定しなかった。しかし条件は変わらなかった。

その翌週、スターリンが朴に直接会いたいと言った。野坂から伝言が来た。朴が大阪に来ることを、スターリンが求めていた。理由は書かれていなかった。

朴は大阪に向かった。

会合は倉庫の一室で行われた。通訳を挟んだ。スターリンは着座した状態で朴を迎えた。

スターリンは最初、覚書のことを話した。三インターの各組織が革命政権を支持しているという話をした。話は長かった。朴は聞いていた。

三十分後、スターリンは話を変えた。

「南方に行くつもりか」

朴は答えた。「資源が必要だ」

「英国は反発する」

「わかっている」

「私が仲介することもできる」スターリンは言った。「英国との接触には、私のルートがある」

朴は答えなかった。スターリンの言葉の意味は、一つではなかった。「仲介できる」は「仲介する条件がある」に等しかった。条件は、三度目の会談で留保した三番目の項目——影響圏の優先——だった。

スターリンは続けた。

「急ぐ理由はない。外交は時間がかかる。しかし——」

スターリンはそこで止まった。右手が膝の上にあった。震えていた。スターリンはそれを左手で押さえた。

「しかし」とスターリンは繰り返した。「時間が経てば、条件が変わる」

朴は机の上に帳面を開いていた。何も書いていなかった。帳面の白いページを見た。

「いつまでに回答すれば良いか」と朴は言った。

「三ヶ月」とスターリンは答えた。


三ヶ月後、朴は回答しなかった。

回答を書き始めたことは、野坂だけが知っていた。草稿が三通あった。最初の草稿は「条件を受け入れる」方向で書かれていた。二通目は「条件を部分的に修正する」という提案だった。三通目は一行だった——「本件は継続協議とする」。

三通目が机の上に残った。しかし発送されなかった。

その同じ週に、石油備蓄の第二次報告が届いた。数字は最初の報告より悪かった。消費速度が増していた。南方作戦の準備が始まっていたからだった。準備を始めれば消費が増える。消費が増えれば期限が縮む。期限が縮めば外交に割ける時間が減る。

朴は石油備蓄の報告書と、スターリンへの草稿を、机の上に並べた。

それから野坂を呼んだ。

野坂が来たとき、机の上には地図だけがあった。報告書も草稿も、引き出しに入っていた。朴が野坂に見せたのは、南方資源地帯の地図だった。

「準備を本格化する」と朴は言った。

野坂は地図を見た。地図の上の、スマトラとボルネオに朴が線を引いていた。

「スターリンへの回答は」と野坂は言った。

「保留だ」

「三ヶ月の約束は」

「次の交渉の材料になる」

野坂は何も言わなかった。朴も続けなかった。二人は地図を見た。


朴は野坂の交渉記録を読んでいた。机の上に、返答のない書簡が三通と、拒絶の書簡が二通あった。朴は五通を重ね、机の端に寄せた。残ったのは地図だった。

南方の資源地帯が、外交の行き止まりの先に見えていた。ドイツ東洋艦隊が六年間動けずにいるシンガポール。その先のスマトラの油田。帝国が欲し、帝国が取れなかったものを、革命国家が取りに行く。同じ地図を、同じ理由で見ていた。

朴は地図から目を離さなかった。


派兵承認の人民評議会で、朴は賛成票を入れた。挙手する前に、一瞬手が止まった。

しかし付帯決議の文言をめぐり、朴と野坂が対立した。

朴は「占領期間の上限五年」を主張した。五年で撤退する。解放であって征服ではないことを、時間で証明する。

野坂が切り返した。

「上限を明記すれば、五年後に撤退を迫られる。期限なしの方が柔軟だ」

朴は反論しようとした。しかし論理的に反論できなかった。野坂の言う通りだった。期限を切れば、五年後に撤退圧力が生じる。期限を切らなければ、状況に応じて判断できる。柔軟性は合理的だった。

野坂案が通った。

野坂案が通った。評議会は拍手した。朴は手を動かさなかった。

評議会の場外で、旧労農派系の議員が声を上げた。「配給が減る中で外征か」。一人の声だった。しかしその一人の声は、革命政権が帝国と同じ選択を迫られていることを可視化した。


その夜、朴は金日成と会った。

金日成は朝鮮議政院の報告を持ってきた。土地改革の数字だった。朝鮮南部の地主から接収した農地の面積、再分配の進捗、農民の反応。

金日成は数字を淡々と読み上げた。朴は聞いていた。

報告が終わったとき、朴は口を開いた。

「それは——」

朴は言いかけて、やめた。

言いかけた一音節が、部屋の中に落ちた。金日成は朴を見ていた。白い指先を見たかどうかは、わからなかった。

金日成は何も問い返さなかった。朴も続けなかった。試し合いの終点だった。

金日成が去った後、朴はタイ交渉の草稿に戻った。タイとの通過交渉——南方作戦の前提条件だった。北部四州の領有承認と革命不輸出が核心条件だった。

草稿の紙は白かった。金廷民の紙片のような黄ばみはなかった。新しい紙だった。新しい国の紙だった。

野坂に負けた直後に、金日成を道具として使う決断をした——朴自身も革命の道具になった瞬間だった。


スターリンが建国宣言式典で壇上に立ったのは、一九四四年の初めだった。

短い祝辞を読んだ。通訳が日本語に変えた。群衆は拍手した。野坂が隣で微笑んだ。

スターリンが何を承認したのかは、曖昧なままだった。しかし「ボリシェヴィキの正統な継承者がこの革命を認めた」という物語は、既成事実として流通し始めた。

朴はスターリンへの敬意を持っていなかった。有用である間の敬意だった。二度ボリシェヴィキに裏切られた男にとって、スターリンの権威は道具でしかなかった。

しかし道具は使わなければならなかった。

革命は道具で動いていた。山本は道具だった。スターリンは道具だった。金日成は道具だった。そして朴自身も——木村鉄雄という名前で動く道具だった。

朴は式典の後、倉庫に戻った。机の引き出しを開けた。帆布の小袋があった。もう何年も開けていなかった。小袋の口を緩めた。中の紙片は黄ばみ、角が丸くなっていた。匂いはもうなかった。

朴は小袋を閉じ、引き出しに戻した。