第十二章 南


一九四五年三月、マレー半島南下作戦が開始された。

タイ南部ソンクラーに集結した約六万五千の兵力が、西岸道路を軸に南下を始めた。三梯団編成。第一梯団三万が主力として西岸ルート——ケダー、ペナン、イポー、クアラルンプール、マラッカ、ジョホール——を南下した。コタバル方面には先行牽制部隊が上陸し、GEA守備隊の兵力を拘束した。

作戦期間の上限は八週間。弾薬備蓄から逆算した数字だった。四月末までにジョホールに到達しなければ、南西モンスーンが西岸を襲い、道路は泥濘に沈む。

朴は大阪にいた。前線にはいなかった。報告を読み、地図に印をつけた。


金日成は朝鮮旅団の派遣を承認していた。

第二梯団に含まれる朝鮮旅団は、約三千人。軍事的には小規模だった。しかし政治的意味は大きかった。朝鮮人民軍の兵士が、日本人民軍とともに「解放戦争」に参加する。連邦の連帯を証明する象徴的派遣だった。

金日成はこれを計算の上で承認した。旅団の戦闘経験は、帰国後に朝鮮人民軍の中核となる。解放戦争の功績は、金日成の三重権力基盤の一角を補強する。

朴は金日成の計算を知っていた。知りながら承認した。


山本が南方の敵情を報告した。

「ドイツ東洋艦隊は六年間、シンガポールで動いていません」地図の上に、山本の指がシンガポールを示した。本国からの補給は一九三九年に途絶えていた。戦艦「フォン・デア・タン」と「カイザー」は港に係留されたまま動けない。重油がなかった。稼働艦は軽巡洋艦二隻と駆逐艦八隻だけだった。

「しかし司令官のフォン・レットウは、東アフリカでゲリラ戦を戦った男です」

山本の声に、軍人としての敬意が混じっていた。シンガポールの要塞は陸側から強化されていた。ジョホール海峡に機雷。ブキ・ティマの高地に砲台。守備兵力は一万八千名。ドイツ人は三千名で、残りは現地徴用のマレー人とインド人だった。

朴は地図を見ていた。GEA——大東亜共栄圏——の末端が、帝国の最後の砦になっていた。


最も激しい戦闘はイポー北方のキンタ渓谷で起きた。

四月八日、GEA守備隊の一個大隊がイポー北方三十キロの錫鉱山地帯に防衛線を敷いた。ドイツ人将校が指揮し、マレー人兵士が塹壕を掘った。錫鉱山の採掘溝を利用した陣地だった。

第一梯団の先遣部隊が突入した。ジャングルの中の白兵戦になった。視界は十メートルしかなかった。人民側は砲撃で支援したが、樹冠が砲弾の信管を早爆させた。三日間の戦闘で人民側に四十二名の死者が出た。GEA側は二十八名が戦死し、残りは南に後退した。

四月末、ジョホールに到達した。

八週間の期限ぎりぎりだった。GEA地上軍は兵站不足で後退を続け、マラッカ海峡の制海権は人民海軍が確保した。しかし損耗は大きかった。キンタ渓谷を含め、南下作戦全体で人民側の死者は千二百名を超えた。

シンガポール包囲が始まった。包囲は南西モンスーンの季節に食い込んだ。雨が降り続いた。前線の兵士は泥の中で待った。


ベルリン 一九四五年四月

外務省東アジア課の執務室は、夜でも電灯が消えなかった。

レッツォウは電報を机に置いた。シンガポール包囲確立。発信地は東京。受信時刻は四月二十九日の夜半だった。

窓の外に、菩提樹並木があった。芽吹きの季節だった。Weltkrieg終結からちょうど一年になろうとしていた。世界秩序の設計図——das Reichが描いた分割線——は、紙の上では完結していた。GEA(ドイツ東アジア経済圏)はその線上の産物だった。石油権益、航路管理、通貨協定。六年間で積み上げた構造だった。

構造は今、包囲されていた。

レッツォウは立ち上がり、書棚から地図を引き出した。マレー半島。キンタ渓谷に書き込みがあった。二週間前の情報で、すでに古かった。ジョホール海峡の先に、シンガポール島が丸く描かれていた。

上級参事官付きの速記手が、ドアの前に控えていた。

「夜分に申し訳ない」レッツォウは言った。「今夜は要らない」

速記手が引き下がった。

レッツォウは机に戻り、引き出しを開けた。インク壺。羽根ペンではなく、万年筆だった。インクは切れかけていた。換えのカートリッジを探し、はめ込んだ。

十五年間、報告書は口述だった。速記手が速記し、清書手が仕上げ、レッツォウは最後に署名した。文体はレッツォウのものだったが、文字は他人のものだった。

便箋を一枚引き出した。

「本職の所見」

書いてから、線を引いた。「所見」では足りなかった。何と書くべきか、しばらくペンを置いた。

GEAはすでに経済的に溶解していた。ドイツ本国からの補給が途絶えて六年。東洋艦隊は石炭で動かない。錫の権益は事実上の空証文になっていた。日本革命政権が南下してくるより前に、GEAという構造はすでに内側から崩れていた。包囲は終章に過ぎなかった。

書き出しを変えた。

「GEA解体に関する経緯と対応についての覚書」

副題をつけてから、また線を引いた。覚書ではない。覚書は未来の読者に向けて書く。自分が書こうとしているのは、別のものだった。

何のために書くのか。速記手に渡さないなら、この紙はどこへ行くのか。

レッツォウはそれを考えないことにした。ペン先を紙に当てた。

一九四五年四月、日本連邦人民軍の南進によりシンガポール包囲が成立した。本件の帰趨は疑いなく、GEAのアジアにおける実効的存在の消滅を意味する。本職は一九三五年より東アジア課に在り、当該地域の経済秩序の維持に携わってきた。その観点から、以下を記す——

ペンを置いた。

続きはすぐに書けなかった。「記す」の後に来るべき言葉が、まだ固まっていなかった。

それは初めてのことだった。口述では止まることがなかった。話す速度で思考が動き、速記手のペンが追いかけた。言葉は身体より先に出た。しかし自分の手で書くと、言葉が遅れた。紙と自分の間に摩擦があった。

もう一度、ペンを取った。

「記す」の後に、続けた。——GEA解体の過程は、外的圧力によるものではなく、構造的老化の帰結である。補給途絶から六年、東洋艦隊の稼働能力は五割を割り込んでいた。日本連邦の南進はその事実を顕在化させたにすぎない。

書いてから、読み返した。

文体が違った。公文書の文体だった。口述で磨いた文体が、指先から出てきた。それ以外の書き方を、自分は知らなかった。

窓の外の菩提樹が、暗闇の中で揺れていた。

レッツォウは便箋をまとめ、封をしなかった。引き出しに戻した。


パリ 一九四五年四月

ソローキンが新聞を読んでいたのは、セーヌ左岸の安カフェだった。

フランス語紙だった。見出しは三段。「日本軍、シンガポール完全包囲——陥落は時間の問題か」。写真はなかった。地図が小さく入っていた。マレー半島の南端。

コーヒーカップは、テーブルの端に置いたままだった。

ソローキンはコミンテルン極東部の台帳を、まだ頭の中に持っていた。正確には「持っていた」という過去形で言うべきだった。極東部はもう三年近く実質的に機能していない。連絡網はほとんど切れていた。しかし台帳の記憶は消えなかった。名前。地名。組織。ネットワークの残影。

台帳の中に、朴という名前があった。

朝鮮。大阪。日本社会主義党。その先に続く動線が、いまや「日本連邦」という実体になっていた。

設計図の外だった。

コミンテルンが描いた東アジアの革命路線は、日本における社会主義政権の樹立を想定していた。しかしそこから先——革命政権が軍を持ち、朝鮮と連邦を形成し、南進してシンガポールを包囲する——そういった展開は、どの設計図にも書かれていなかった。設計図とは別の論理が動いていた。朴という人間の、あるいは状況の、あるいはその両方の。

テーブルの端にコインを置いた。フランスの五フラン硬貨だった。

新聞を折りたたんだ。立ち上がろうとして、また座った。

「そこまで行ったか」

声は小さかった。カフェの喧騒に消えた。

立ち上がった。コーヒーには手をつけなかった。


一九四六年、シンガポールが陥落した。

GEA東洋艦隊は降伏した。稼働艦の三割から四割で、燃料も弾薬も尽きていた。

陥落後、スカルノが朴に会いに来た。

インドネシアの民族主義指導者だった。GEAの支配からの解放を求め、革命政権との連携を模索していた。スカルノは朴の前に立ち、手を差し出した。

朴は握手した。スカルノは笑顔だった。

しかしスカルノは日本語で話さなかった。

スカルノの唇が一瞬動いた。日本語の音が口元まで来ていた。GEA統治下で覚えた日本語が、舌の上にあった。スカルノはその音を飲み込んだ。通訳に目を向け、インドネシア語で話し始めた。

朴は日本語で話した。スカルノはインドネシア語で答えた。通訳が間に立った。

植民地の言語を拒否する行為だった。スカルノは握手をしながら、その握手が一時的なものであることを宣言していた。この連帯は永続しない。連帯の言語が日本語である限り。

朴はスカルノの手を放した。何も言わなかった。


蘭印の資源地帯が順次制圧された。パレンバンの石油施設。バリクパパンの製油所。ジャワ。

石油が来た。連邦の生命線が確保された。

しかしパレンバンでは、撤退するGEAの技術者が一部の施設を破壊していた。完全な破壊ではなかった。復旧には六ヶ月かかると見積もられた。

生存スコアは下がらなかった。しかし上がりもしなかった。

朴は報告書を読み、次の設計に取りかかった。連邦の経済統合——ACA(アジア清算協定)の骨格を書き始めていた。

清算単位。域内決済。域外通貨。すべてを朴が設計した。すべてが日本語で書かれた。翻訳は後回しにされた。