第十三章 解放
一
一九四六年三月、イポーに軍隊が来た。
陳文斌は屋根の上にいた。祖母の家の屋根は錫板で葺いてあり、雨が降ると音がうるさかった。晴れた日は熱くなった。陳は錫板の上に新聞紙を敷いて座り、通りを見下ろしていた。
軍隊は南から来た。クアラルンプールを通過し、キンタ渓谷を北上してきた。トラックの列が埃を巻き上げ、兵士が歩いていた。日本人民軍と書かれた腕章をつけていた。赤い星の旗を掲げていた。
陳の祖母は台所にいた。窓から通りを見て、福建語で言った。
「また別の軍隊だよ」
祖母はイギリス軍を見た。日本軍を見た。ドイツ東洋艦隊を見た。今度は日本人民軍だった。旗が変わり、腕章が変わり、軍隊が来て去った。祖母にとって、彼らはすべて同じだった。遠くから来て、何かを持っていき、いずれ去る者たちだった。
陳文斌は二十四歳だった。イポーで生まれ、イポーで育った。父は福建省から渡ってきた錫鉱山の労働者で、マラリアで死んだ。母は客家で、市場で野菜を売っていた。陳は英語の学校に通い、日本語を覚え、福建語で夢を見た。三つの言語が一つの体に住んでいた。戦前、陳は英語の教員になるつもりだった。試験料を三年かけて貯め、通貨の切り替えで二度失った。
二
通訳が必要だった。
日本人民軍のイポー駐屯司令部が、華人の通訳を募集していた。日当は配給米二合と現金五十銭。陳の母が言った。「行きなさい。米がもらえる」
陳は司令部に出頭した。旧イギリス植民地政庁の建物だった。ドイツ東洋艦隊が使い、今は日本人民軍が使っていた。建物は同じだった。机の上の書類の言語が変わっただけだった。
士官が陳に日本語で話しかけた。
「名前は」
「陳文斌です」
「日本語はどこで覚えた」
「GEAの配給所で働いていました」
士官は頷いた。陳の日本語には訛りがあった。マレー半島の華人が覚えた日本語だった。文法は正確だったが、発音に福建語の声調が残っていた。士官はそれを気にしなかった。
「明日から来い。住民への布告の翻訳だ」
陳は翌日から司令部に通った。
三
最初の仕事は、「解放宣言」の翻訳だった。
日本語で書かれた文書だった。「日本人民共和国連邦は、マラヤの人民をドイツ帝国主義の支配から解放する」と書かれていた。陳はこれを福建語に訳した。
「解放」という言葉で止まった。
福建語で「解放」に当たる言葉はあった。しかしその言葉を祖母に言ったとき、祖母は首を傾げた。「それは何だい」。祖母にとって、支配者が変わることは「解放」ではなかった。イギリス人が去り、日本人が来た。日本人が去り、ドイツ人が来た。ドイツ人が去り、また日本人が来た。旗が変わるたびに、錫鉱山の賃金が変わり、市場の米の値段が変わった。しかし祖母の台所は変わらなかった。
陳は翻訳を続けた。「人民の自決権」を福建語に訳した。「連邦の構成国としての自治権」を訳した。言葉は正確だった。しかし訳すたびに、元の言葉と訳された言葉の間に隙間ができた。
日本語の「解放」は設計者の言葉だった。大阪の倉庫で書かれ、東京の評議会で承認された言葉だった。陳が訳した福建語の「解放」は、イポーの市場で祖母が首を傾げる言葉だった。同じ文字が、違うものを指していた。
四
四月、配給券が届いた。
日本語で印刷されていた。品目と数量が日本語で書かれ、裏面にマレー語の翻訳が小さく添えてあった。華人向けの翻訳はなかった。
陳の祖母は配給券を手に取り、裏返し、また表に戻した。読めなかった。日本語もマレー語も読めなかった。福建語で陳に聞いた。「これは何だい」
「米の配給券です。一人二合」
「どこでもらえるんだい」
「配給所です。旧市場の隣」
祖母は配給券を陳に渡した。「お前が行っておくれ」
陳は配給所に行った。窓口で配給券を出した。窓口の兵士は日本語で名前を聞き、帳簿に記入した。帳簿は日本語だった。陳の名前は日本語の音読みで「チン・ブンヒン」と書かれた。母の出店許可も、同じ音読みで登録し直されていた。
陳は米を受け取り、祖母の家に戻った。祖母は米を研ぎ、飯を炊いた。飯の炊き方は誰が来ても変わらなかった。
五
五月、スカルノがシンガポールに来た。
陳は通訳団の一員として同行した。シンガポールの旧総督府——今は連邦南方司令部——の大広間で、スカルノと日本人民軍の司令官が会談した。
スカルノは通訳を介して話した。インドネシア語で話した。日本語は話さなかった。
陳はスカルノの通訳ではなかった。別の通訳が日本語に訳していた。陳は華人居住区の連絡係として、会談の外縁にいた。しかし大広間の扉が開いていたので、声は聞こえた。
スカルノの声は太く、よく通った。インドネシア語の響きは、陳の知っているマレー語に似ていた。しかし同じではなかった。スカルノはインドネシア語で話すことを選んでいた。日本語を知っていた。GEA統治下で日本語の演説をしたこともあった。しかしこの場で、スカルノは日本語を使わなかった。
陳はそれを見ていた。スカルノは言語を選ぶことで、何かを取り戻していた。陳の祖母が配給券を読めないこととは違う種類の、意識的な選択だった。
陳は会場を出た。シンガポールの通りは蒸し暑かった。戦争の痕がまだ残っていた。爆撃で崩れた建物の壁に、日本語とマレー語と英語と中国語の張り紙が重なっていた。一番下にはGEA時代のドイツ語の布告が見えた。五つの言語が一枚の壁に重なっていた。
陳は通りを歩いた。どの言語で考えているのか、と問われたら、陳は答えられなかっただろう。祖母の福建語で値段を数え、英語で法律を読み、日本語で命令を訳していた。三つの言葉が一つの体に住んでいた。どれも自分のものであり、どれも完全には自分のものではなかった。
パリ、一九四六年五月。
ソローキンはカフェの隅の席にいた。窓の外はセーヌ沿いの並木で、新緑が出ていた。テーブルの上にコーヒーがあった。口はつけていなかった。
新聞はル・モンドだった。東南アジア面の記事に、スカルノの写真が使われていた。シンガポールの旧総督府の前、日本人民軍の将校たちとの握手。記事の見出しは「インドネシア、連邦構成国として独立を確認」だった。
ソローキンは記事を読んだ。読み終えて、新聞を折り畳んだ。
スカルノはインドネシア語で話したと書かれていた。会談の全過程を通じて。日本語の通訳を介して。
コミンテルンが一九三八年に起案した東南アジア解放計画は、共通語としてのロシア語を前提としていた。植民地民衆を直接に組織するには、帝国主義の言語でもなく、宗主国の言語でもない、中立的な共通語が必要だった。ロシア語はその器になるはずだった。ソローキンはその設計の中枢を書いた。四十七ページの報告書の、核心部分を。
設計は動かなかった。
日本人民軍がマラヤに入り、インドネシアに入り、東南アジアの半分を三ヶ月で制圧した。ソローキンの計画にあった「漸進的な民衆組織化」は起きなかった。「労働者評議会による自治の段階的移行」は起きなかった。解放は起きた。しかし設計の外で起きた。
ソローキンは窓の外を見た。
一九四四年秋、ソローキンは「赤い共栄圏・実態評価」を書いた。四十七ページ。結論欄は空白のまま提出した。「提言なし」と書いた。結論欄の空白は、当時と同じ形のまま残っている。提言の余地がなかったのではない。提言の対象が消えていたのだ。設計者が計画する前に、事態がすでに動き始めていた。
我々なしで始まり、我々なしで進んだ。
スカルノはインドネシア語を選んだ。日本語を知りながら、使わなかった。
「そこまで行ったか」
声には出さなかった。
テーブルの下で、ソローキンの手がわずかに動いた。指が紙面の端を折り、また戻した。それだけだった。怒りでも諦めでもなかった。設計者が設計の外に立たされた者の、名前のない感覚だった。
朝鮮語が一瞬、頭の中に浮かんだ。ハングルの字形。それがなぜ浮かんだのか、ソローキン自身にはわからなかった。
新聞はテーブルに置かれたままだった。コーヒーは冷めていた。
六
陳はイポーに戻った。
司令部での通訳の仕事は続いた。布告を訳し、配給の説明を訳し、住民の苦情を訳した。陳が訳した言葉は、陳の祖母には届かなかった。祖母は配給券を持って陳のところに来続けた。「これは何だい」と聞き続けた。
ある日、陳は司令部の書庫で一枚の文書を見つけた。大阪から送られてきた連邦憲法の草稿だった。日本語で書かれていた。末尾に署名欄があった。署名はなかった。空白だった。
文書の余白に、鉛筆で小さな字が書いてあった。日本語だった。「朝鮮語版未着」。
陳はその文字を見た。朝鮮のことは知らなかった。しかし「未着」という言葉は理解できた。どこかの言語が、まだ届いていなかった。陳の福建語がこの文書に載ることは、おそらくなかった。
陳は文書を棚に戻した。司令部を出て、祖母の家に帰った。祖母は台所にいた。錫板の屋根の下で、飯を炊いていた。
「おばあちゃん」と陳は福建語で言った。
「なんだい」
「なんでもない」
陳文斌は二十四歳だった。解放された街で、翻訳されない言葉を話していた。