第十五章 帰還


一九四七年の夏、朴永哲は釜山に降りた。

三十年ぶりだった。

船は下関から出た。関釜連絡船だった。帝国時代と同じ航路だった。船の名前が変わり、旗が変わり、切符の言語が変わったが、海峡は同じだった。朴は甲板に立ち、釜山の港が近づくのを見ていた。

港に降りたとき、空気が違った。潮の匂いはウラジオストクとも函館とも違っていた。朝鮮の海の匂いだった。朴はその匂いを知っていたのか、知らなかったのか、自分でもわからなかった。五歳でウラジオストクに渡った記憶は曖昧だった。

港で若い男が朴に朝鮮語で話しかけた。

「お荷物をお持ちしましょうか」

朴は朝鮮語で答えようとした。言葉は出た。しかし若い男が一瞬、顔を傾けた。朴の朝鮮語は古かった。三十年前のウラジオストクの朝鮮語だった。語彙が古く、抑揚が違っていた。若い男の朝鮮語は、朴の知らない言い回しを含んでいた。

「大丈夫です」と朴は言った。日本語に戻りかけた。踏みとどまった。「自分で持てます」

朴は荷物を手に持った。帆布の小袋は内ポケットにあった。


京城に着いたのは翌日だった。

列車の車窓から見る朝鮮の風景を、朴は黙って見ていた。田んぼがあった。山があった。村があった。すべてが初めて見るものだった。朴が知っている朝鮮は、ウラジオストクの朝鮮人街と、金廷民の話の中にしかなかった。

京城駅に降りた。駅の看板はハングルと日本語の併記だった。アナウンスは日本語で流れた。朝鮮語のアナウンスはその後に続いた。順番があった。

駅の前で、朴は連邦の出先機関を探した。旧朝鮮総督府の建物だった。金日成の議政院が入っている建物だった。朴は建物を見上げた。日本人が設計し、日本人が建て、日本人が支配のために使った建物だった。今は朝鮮人が使っていた。建物は同じだった。

出先機関の窓口に行った。窓口には若い女性がいた。日本語で「何のご用件ですか」と聞いた。

「朴永哲です。連邦評議会の——」

女性の表情が変わった。名前を知っていた。「少々お待ちください」と言って奥に消えた。

朴は待っている間、窓口の棚を見た。書類が並んでいた。土地登記の申請書。営業許可の申請書。住民登録の書類。すべて日本語だった。

一部の書類には朝鮮語の欄があった。しかし記入例は日本語で書かれていた。朝鮮語の欄は空白のまま、日本語の欄だけが埋められた書類が、棚に積まれていた。

朴はその書類の山を見ていた。

自分が設計した連邦の中で、朝鮮人は日本語で権利を申請していた。


二の二

同じ年、イポーの陳文斌は連邦の法律文書を訳していた。

一九四七年の初夏だった。戦争が終わり、連邦が成立してから二年が経っていた。陳は連邦地方行政局の通訳官として雇われていた。戦時中の日本人民軍で通訳として働いた経歴が、そのまま仕事になっていた。

大阪から届く文書の量が増えていた。

連邦民法の施行令。土地登記の様式改正。社会保険制度の適用範囲。すべて日本語で書かれていた。陳の仕事は、それを福建語に訳して地域住民に配布することだった。

「調停」という語に、陳は一時間かけた。

日本語の「調停」は、両者の間に立って折り合いをつける行為を指した。福建語には近い語があったが、意味が微妙にずれた。法律の文脈で使われる「調停」は、裁判所が介在する手続きを意味していた。しかし陳が知っている福建語の対応語は、近所の顔役が仲介に入る場面で使う言葉だった。

同じ音で書いても、届く意味が違う。

陳は余白に両方の語を並べて書き、その下に説明を足した。翻訳ではなく注釈になった。

配布資料が厚くなっていった。

福建語に訳すだけでは足りなかった。住民の中にはマレー語しか話さない者もいた。タミル語を話す者もいた。陳の担当区域だけで、四つの言語が混在していた。連邦の制度は日本語で書かれていた。日本語は陳の三言語の一つだったが、陳の住民全員の言語ではなかった。

窓の外で、通りの音がしていた。福建語が聞こえた。マレー語が聞こえた。英語の看板が残った店の前を、日本語の標識を立てる作業員が通り過ぎた。

陳は机に向き直った。民法施行令の続きが積まれていた。

「解除」という語の次に「解約」があった。日本語では二語は別の手続きを指した。陳の福建語では同じ語で両方を表すことが多かった。訳し分けるためには説明が必要だった。説明のための言葉を書くための欄は、書式の中になかった。

陳は欄の外に字を書いた。


金日成との会談は、議政院の応接室で行われた。

金日成は朴より先に席についていた。茶が用意されていた。朝鮮の茶だった。

「朴同志」と金日成は朝鮮語で言った。

朴は朝鮮語で応じた。「金同志」

二人は朝鮮語で話した。朴の朝鮮語はぎこちなかった。単語が出てこないことがあった。日本語の語順が混じることがあった。金日成はそれを指摘しなかった。

金日成は土地改革の進捗を報告した。教育改革の進捗を報告した。朝鮮語の教科書が小学校に配布されたことを報告した。

朴は一つ尋ねた。

「尹英淑は」

金日成は答えた。「議政院の教育委員です。朝鮮語教科書の編纂をしています」

朴は頷いた。炊事場で女たちに賃金の話をしていた尹が、今は教科書を書いている。朴の名簿に名前がなかった女が、朝鮮の子供たちに文字を教えている。

一つ、聞きそびれたことがあった。教科書は標準語で書かれているのか。尹の母が使った慶尚道の語尾は、教科書に載るのか。朴はそれを聞かなかった。

「窓口の書類は、まだ日本語ですね」と朴が言った。

「変えつつあります」と金日成は答えた。「しかし法律が日本語で書かれている以上、書類も日本語です。連邦法が日本語である限り」

朴の唇が動いた。朝鮮語の音が口の中で形を作りかけ、崩れた。

「朴同志が設計した連邦の中で、我々は日本語で権利を申請しています」と金日成は続けた。

朴は答えなかった。答える言語を持っていなかった。朝鮮語で反論するには、朴の朝鮮語は三十年遅れていた。日本語で反論すれば、金日成の指摘を証明することになった。朴の手は膝の上にあった。茶碗に伸ばすこともできなかった。

茶が冷めていった。金日成は茶を飲んだ。朴は飲まなかった。


会談の後、朴は京城の街を歩いた。

通りにはハングルの看板が増えていた。日本語の看板と並んでいた。古い看板は日本語だけだった。新しい看板はハングルが先に書かれ、日本語が下に添えてあった。順番が変わっていた。

朴はハングルを読んだ。読めた。ウラジオストクで覚えた文字だった。しかし看板に書かれた言葉の一部がわからなかった。新しい言い回しだった。金日成の教育改革で復活した古い朝鮮語と、朴の知らない現代の朝鮮語が混じっていた。

朴は立ち止まった。看板を見上げていた。

読めるが、完全にはわからない言語。書けるが、流暢には書けない文字。朴が三十年間守ろうとした言語は、朴の不在の間に、朴なしで育っていた。

朴は通りを歩き続けた。市場があった。女たちが朝鮮語で値段を叫んでいた。魚の匂いがした。ウラジオストクの市場とは違う魚だった。しかし声の調子は似ていた。


夕方、朴は京城の南の村を訪ねた。

金廷民の出身地だった。帆布の小袋の中に、金廷民が書いた住所があった。三十年前の住所だった。

村に着いたとき、日はもう傾いていた。小さな村だった。農家が数軒あり、畑が広がっていた。

朴は農家の前に立った。老人が出てきた。朴は朝鮮語で尋ねた。

「金廷民という方をご存じですか」

老人は首を傾げた。

「クム・ジョンミン。ここの出身だったはずです」

老人は考えた。長い間考えた。

「知らないねえ。その人はいつ頃の人だい」

「一九一七年に、最後にここを発ちました」

「三十年も前かい。わしが子供の頃だ。知らないねえ」

朴は頭を下げた。村を出た。

畦道を歩きながら、朴は帆布の小袋を取り出した。口を開けた。中の紙片は黄ばみ、角が丸くなっていた。符丁はまだ読めた。しかし匂いは完全に消えていた。金廷民の外套の匂い。ウラジオストクの食堂の匂い。三月の風の匂い。すべてなくなっていた。

朴は紙片を小袋に戻した。小袋を内ポケットに入れた。

畦道の先に、夕日が落ちていた。朝鮮の夕日だった。朴が見たことのない、しかし金廷民が見ていたはずの夕日だった。


同じ夏、イポーでは陳文斌が通訳の仕事を続けていた。

連邦の行政文書が増えていた。大阪から届く書式が変わり、様式番号が振られ、記入欄が増えた。すべて日本語だった。陳は住民の申請を日本語の用紙に書き写す作業を毎日していた。

福建語で聞き取り、日本語で記入し、控えをマレー語で渡す。三つの言語が陳の手の中を通過した。どの言語も用紙の正式な言語ではなかった。正式な言語は日本語だけだった。

祖母が死んだのは、その年の六月だった。配給の手続きが必要だった。死亡届は日本語の書式だった。陳は祖母の名前を日本語の音読みで書いた。「チン・アー・メイ」。祖母は生涯その名前を使ったことがなかった。

陳は死亡届を窓口に出した。窓口の係員は日本語で受け取り、日本語で処理した。

陳は窓口を出た。通りを歩いた。祖母の家の錫板の屋根が見えた。台所はまだ祖母の匂いがした。


六の二

一九四七年の夏、奉天の趙維光は方眼紙に書きかけの記事を置いた。

書き出しを三回変えた。

「一九四七年の夏、アジアには三つの引力圏が存在する」

書いた。読んだ。消した。

「引力圏」は審査部が通さない。「勢力」なら通る場合もある。しかし「三つの勢力」と書けば、何を指すかが見えすぎる。ベルリン、大阪、それから——どこか。まだ名前のない場所。旧協商が解体された後に残った、英仏の残滓が溜まっている場所。地図には塗られていないが、そこに何かがある。

趙は方眼紙の余白に三つの点を打った。

三角形になった。どの点も中心ではなかった。三つの引力が別々の方向を向いていた。交差していなかった。まだ。

引き出しを開けた。一年前の原稿があった。「赤い共栄圏の成立について」の元原稿だった。審査部に通す前の版には、「ドイツ帝国の影響力の後退」という節があった。その節は最終稿では消えていた。

趙はその三行を読んだ。

ドイツ帝国はGEA体制を通じてアジアへの影響力を保持しようとした。しかし一九四五年以降、その構造は機能を失っている。GEAの解体は既定路線とみられる。

事実だった。「既定路線」という断定調が問題だったと言われた。

趙は原稿を引き出しに戻した。方眼紙の三つの点はまだそこにあった。どの点も動いていなかった。

窓の外で鳩が飛んだ。趙はそれを見た。腹が減っていた。昼を食い忘れていた。


六の三

同じ年の秋、ベルリンのレッツォウは報告書の空白を見ていた。

外務省への東亜情勢概観だった。書き終わった部分の末尾に、まだ書いていない一段落が残っていた。

アジアにおけるドイツの影響力回復は——

書きかけた。止まった。

「回復」という語の前提は、一度あったということだった。GEAが機能していた時代。租借地があった時代。レッツォウはその時代を知っていたが、今のベルリンに説明するのが難しかった。

窓の外、秋のベルリンだった。戦後二年の街はまだ修復の途中で、崩れたままの壁が残っていた。その前を人々が普通に歩いていた。

アジアにおけるドイツの影響力回復は、と書いた後に続く語を、レッツォウは三つ考えた。

「困難である」。「不可能である」。「問題ではない」。

三つ目が最も正確だった。アジアはもはやドイツの問題ではなかった。大阪と、名前のない場所と、それからおそらく他のどこかに、問題が移っていた。三極の引力が別々の方向を向いていた。ドイツはその外側にいた。

アジアにおけるドイツの影響力回復は、本報告の射程外とする。

書いた。読んだ。修正しなかった。


朴は京城に戻った。

翌日、下関行きの連絡船に乗った。帰る場所は大阪だった。連邦の設計者は、連邦の首都に戻るしかなかった。署名を拒否した連邦に。

船の甲板で、朴は朝鮮の海岸線が遠ざかるのを見ていた。

三十年前、ウラジオストクで金廷民に会ったとき、朴は二十二歳だった。金廷民は言った。「日本の運動と朝鮮の運動は別物ではない」。朴はその言葉の傍に立った。帆布の小袋を受け取り、日本に向かった。日本語を第二の言語にし、第一の言語にし、やがて唯一の言語にした。

朝鮮を解放した。日本語で。

海峡の向こうに日本の海岸線が見え始めた。朴は甲板の手すりを握っていた。錆びた鉄の感触が掌にあった。風が強くなっていた。

帆布の小袋は内ポケットにあった。三十年分の重さがあった。紙の重さではなかった。匂いが消えた分だけ、軽くなっていた。しかし軽くなった分だけ、重かった。

朴永哲は五十二歳だった。木村鉄雄は五十歳だった。二つの名前を背負ったまま、海峡を渡った。