プロローグ 予感
灯りは机の上だけを照らしていた。
部屋の隅は暗かった。天井も壁も、光の外にあった。照らされているのは紙一枚分の広さだけで、その他のすべては輪郭を失っていた。
紙が机の中央に置かれている。
厚手の上質紙だった。端がわずかに反り、灯りの下で繊維の凹凸が浮かび上がっている。刷り上がって間もないのか、かすかにインクの匂いがした。印刷された活字が整然と並び、数箇所に空欄が設けられていた。余白には細い罫線——署名のための場所。
一つの欄に、名前が印字されていた。
手がその紙の傍にあった。右手だった。指は伸びてもいなかった。握られてもいなかった。何かに触れようとして途中でやめた形のまま、机の上で止まっていた。
窓の外で風が鳴った。街路樹の枝が窓硝子を叩く音が、不規則な間隔で繰り返される。
灯芯が揺れた。紙の上を影が走り、活字が一瞬はっきりした——木村鉄雄。影が戻り、名前はまた灯りの中に沈んだ。
手は動かなかった。
隣の部屋で椅子が引かれる音がした。足音が廊下を歩き、遠ざかっていった。しばらくして別の足音が近づき、同じ椅子が軋んだ。隣の部屋にも、待っている者がいた。
時間が経った。灯りの油が減り、円い光の縁がわずかに縮んだ。紙は光の中にあった。名前も光の中にあった。手はその傍にあった。
何かが変わったのは、音ではなかった。暗さの質だった。窓の外の闇の底に、まだ色とは呼べない白さが滲み始めていた。
手は、まだ動かなかった。